Muesta Joven(若手監督作品上映会)の反逆 | MARYSOL のキューバ映画修行

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【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

キューバ映画の最新の動向を知るのに欠かせないイベント、Muestra Joven(若手監督作品上映会)。

すでにこちらで報告したように、今年は開催前から一悶着あり、結局ジミ・ラミレス監督の『Quiero hacer una película(仮:僕は映画が撮りたい)』。以下、『QHUP』)はICAICの検閲により上映されなかったが、なんと同監督の別の短編作品『Gloria eterna(仮:永遠の栄光)』が、フィクション部門でベスト作品に選ばれた!

         Gloria eterna(監督:ジミ・ラミレス)

            

             *紙幣になったフリアン。 Yo soy HOMBRE(私は人間だ)と書かれている。

 

未見ながらウェブで読んだ範囲では、“ヒーロー”として祭り上げられることになった、平凡な役人フリアン(注!ホセ・マルティの本名はホセ・フリアン)の悲(喜)劇、もしくは葛藤の物語らしい。彼が身を置く官僚組織では、従順度と昇進は比例する。フリアンの働きに対する報奨は、最初は紙幣、次は胸像、最後は立像になること。つまり、フリアン(マルティ)は人間を超え、立像となり偶像化される、というわけだ。

フリアンには妊娠中の妻がいる。生まれてくる子に泳ぎを教えるのが彼の夢だが、セメントで固められたらその夢は叶わない。だが、それ(自殺)を受け入れれば、妻と生まれてくる息子は、苦労や欠乏生活とは無縁の人生を送れる・・・・その後の展開は不明・・・・

          

ディーン・ルイス・レジェスの評によれば、ジョージ・オーウェルの「1984年」を思わせる内容で、だからこそレジェスは《正体を現さないまま正当性を主張し、一方的に指令を下す「権力」に対し、芸術は論争を挑む義務がある》と主張する。

ジミ・ラミレス監督は、『QHUP』ではマルティを侮辱するような台詞を登場人物に喋らせたが、本作では、全体主義的組織の中で正当性も不明なまま神格化される存在としてフリアンを描く(ようだ)。それは、『ある官僚の死』の〈マルティの像が大量生産される戯画的シーン〉を思い出させる。

 

ジミ・ラミレス監督

 

確立された権威に対する反抗もしくは偶像崇拝への懐疑。それはキューバ映画にとって、ことさら新しい現象ではないが、去年あたりから表現がより大胆で直接的になっている気がする。例えば、ミゲル・コユーラ監督の『ノーバディ』のように。恐れが消えたのか?

いずれにせよ、今年のMuestra Jovenでは、未来の映画人とICAICとの断絶が表面化し、情報発信にせよ、映画製作にせよ、国家が独占できないことを印象づけた。

Muestra Jovenの存在意義を積極的に評価し、ICAICからの独立を示唆するキューバ映画人たち

「映画はあらゆる方向から現実を見ることができる」(ラストシーンのフェルナンド・ペレス監督の言葉)

 

参考記事:アレア、芸術と批評行為(もしくは社会批判)

https://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-12361518440.html