現在公開中の『東の狼』は、藤竜也さんの圧倒的な存在感に対する評価は高いものの、内容については「よく分からない」という意見が多いようです。
一方、キューバでは昨年12月の映画祭で上映されたきりですが、ネットで見つけたレビューはとても興味深く、作品の理解や鑑賞の助けになります。
今日はそのひとつを紹介しますが、本文を上手く訳すのが非常に難しいうえ、不必要な部分もあるので、勝手に選択・意訳して、私が理解したことをお伝えします。
評者は、Dean Luis Reyes(ディーン・ルイス・レジェス)
カルロス・キンテラは今のキューバ映画界で最も果敢な監督の一人である。
その彼が、移住や組織的協定をすることなく、日本で撮った『東の狼』(日本・キューバ・スイス・ブラジル)は、キューバのインディペンデント映画の成熟度を示す作品だ。
舞台となる東吉野村は、時間が止まり世の中から隔絶した小宇宙として提示される。
ドラマ展開の根底にあるのは、この特殊な世界。
そこで暮らす主人公アキラは初老の猟師。これまでずっと村の猟師会に君臨してきたタフで強情な会長だ。
彼は、己の猟銃が絶滅した狼の代わりとなって、鹿の過剰な繁殖を抑えていると思っている。
人生の終盤を迎えたアキラは、内に葛藤を抱えている。
自分の属す世界を失い、孤独へと回帰せねばならない時が来るからだ。
あらゆる族長に例外なく訪れる凋落のとき。
まさにその時、絶滅したと信じられていた狼の存在が確認される。
本物の狼との対決。アキラはその執念に取り憑かれる。
個人的確信とは、得てして架空の存在を作り上げるものだ。
しかも、その妄想から自由になることは極めて難しい。
彼が狼の巣穴を突き進む姿は、まるで無意識の世界へと入り込んでいくかのようだ。
周囲の森自体が非理性の領域であり、呪われた運命へと続く経路なのだ。
このシリアスなテーマを描いた脚本を手掛けたのが、3人の若者だというのは奇妙なようだが、前作同様、キンテラは「主体」と「主体が引き継ぐ世界」との価値観の軋轢を描いている。
本作は、主演を務めた日本の高名な俳優、藤竜也へのオマージュである。
彼は日本で伝説であると同時に、敬愛されている俳優だ。
本作の支柱を成す彼の演技は力強く、しかも強烈な磁力で観る者を引き付ける。
『東の狼』は藤竜也であり、藤竜也のためにあり、藤竜也あっての映画だ。
本作のアプローチは、不快で敗北主義的で辛辣でさえあるが、アキラのストーリーの背景には、ほろ苦い愛が存在する。
というのは、1968年に日本の黒木和雄監督が我が国で撮った『キューバの恋人』のアキラが原型にあるからだ。
若い日本の船乗りアキラは、キューバ娘に恋をしたが、彼女の性と政治的フェティッシュ(呪物)は革命だった。
実ることのなかった2人の情熱は、(遺言のような)本作を根底から射抜き、失意の念を滲ませる。
『東の狼』は、幸福やユートピアを幻想、決して到達できない神話として語っている。
そして、歴史的ICAIC(キューバ映画芸術産業庁)亡き後、キューバ映画の国際化に際し、黒木が成したことへの返礼であると同時に、その完成でもあるのだ。