1959年前後の文化状況 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

革命前のキューバは政治経済面で米国の植民地状態でしたが、キューバの文化人が心配していたのは文化的にも植民地化されることでした。
すでにハリウッド映画の勢いは圧倒的で、公開される映画の56.1%、観客数では98%を占めていました。 (マリオ・ピエドラ教授)

資本主義に伴う商業主義(消費主義)、芸術性や自国文化の軽視に対する不満や反発は、若者たちに新しい文化の模索を促しました。
また、政治的混乱や騒乱は、彼らを外国へ避難させました。

Nestor Maria Rosa Desnoes そのような若者たちのなかに、ネストール・アルメンドロス や、その姉、マリア・ロサ、その夫、エドムンド・デスノエスがいました。

1959年1月1日に革命が成就したとき、彼らはどうしていたのでしょう。
上記の3人はニューヨークにいました。


ネストールのことはここ で紹介したように、当時はスペイン語を教えながら、アマチュア映画を撮っていましたが、革命勝利の報に抗いがたく、ひとり帰国しました。


一方マリア・ロサは、「革命で命を落とした人がたくさんいるのに、ノコノコとキューバに戻るなんて出来なかった。革命のために何もしなかったという思いに苛まれて恥ずかしかったから。先にネストールが帰ったわ。そして“革命を守るためにキューバに帰るよう”言われて帰国したの。アメリカがキューバを中傷し攻撃し始めたから」と、かつて私に語ってくれました。
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10934261123.html


では、アメリカの中傷とは具体的にどのようなものだったのでしょうか?
些細な例ですが、マリア・ロサはあるインタビューでこう言っています。
「あるとき、米国の人気雑誌に、フィデルカストロの写真が載っていました。帽子を深めにかぶっている写真で《くたびれたラテンアメリカ人》という印象を与えていました。すでに革命への攻撃が始まっていました。侵略が近いことを確信し、私たちは帰国することにしたのです」。

(写真、発言ともに REVOLUCIÓN Y CULTURA 4/2010掲載)


後年、デスノエスはこう書いています。
(1957年2月、フィデル・カストロの髭が『ニューヨーク・タイムズ』の第11面にはじめて載って以来)アメリカ合衆国のメディアは、フランケンシュタインとロベスピエールを二重写しにして、それに髭を生やしたようなイメージをこしらえ、ゆっくりとだが手をゆるめることなく定着させてきた。フランケンシュタイン的なイメージというのは、カストロの姿を描き出し、おとしめ、破壊しようとする過程で、メディアは機械じかけの怪物を作り出してきたのだから。ロベルピエール的というのは、(中略)カストロは頑として揺るがず、腐敗に屈しない人物であり続けているからだ。 (1987年11月 GS vol.6, 訳:旦敬介)


革命が勝利した時点では、米国が世界に広める(中傷を含む)報道=主張に対抗し、自分たちの視点が捉えた事実を国内外に向けて発信しようとした―。
それが彼ら3人の、そして彼らが属す若い世代の文化人の“心の真実”だったのではないでしょうか。

ちなみに、ネストールはICAIC、デスノエスは「レボルシオン」紙および「ルネス」、マリア・ロサはカサ・デ・ラス・アメリカス(文化機関)で働き始めます。


その後、早くもネストールは1962年に、デスノエスは79年にキューバを去ります。
彼らが出て行った理由はなんだったのか?
キューバの文化面に何があったのか、ICAICの活動も交えて追っていこうと思います。


★ 反革命的風評に対抗した映画作品(1960年)

http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-12054605359.html


追記

マリア・ロサは「革命のために自分たちは何もしなかった」と私に言いましたが、上述の雑誌では「私たちは反バティスタ闘争に協力した。自分たちの物を売ったり(高い物は持っていなかったから高額ではなかったが)、エドムンどは57年と58年にキューバに出かけ、地下活動家にインタビューした」と語っている。