『昔は良かった』ドキュメンタリー(2008年) | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

『昔は良かった』(原題:Todo tiempo pasado fue mejor)/ドキュメンタリー/2008年/約30分 
監督・撮影:ゾエ・ガルシア=ミランダ

映像はこちら 見てください。

概要:
ハバナに現存したレストラン「モスクワ」の登場(1974年)と消滅(1990年)にからめて、キューバがソ連と密接な関係にあった時代を振り返る。


コメントする人:
エンリケ・ピネーダ=バルネ(P):映画監督
フレンシス・フェルナンデス(F):造形美術家
フリオ・セサル・ガンチェ(G):社会学者
グスタボ・アルコス(A):映画評論家
ジョス(Y):作家
ニナ・カレビッチ(K):カザフスタン出身の女性


レストラン「モスクワ」
restaurante Moscú

写真:http://carlosbua.com/restaurantes-cubanos/


内容  注:発言等は意訳・要約しています。前半は特に簡略化しました。


レストラン「モスクワ」は、革命前は「モンテカルロ」という超一流のアーティストが出演するキャバレーだった。
P&F:革命後、悪しき過去の遺物(反体制的)と見られたりテロ行為が起きたりし、最後は火事で閉店した。その後、跡地にレストラン「モスクワ」ができた。
ロシア料理を出す店として大いに賑わった。店内では音楽演奏もあり、ロシアの歌が歌われることもあった。
元店長:なぜ「モスクワ」かって? 当時キューバはソ連と良好な関係にあったからね。
A:革命後、ソ連の援助がなかった頃のキューバは孤立していた。
G:革命に至る反乱の時代、キューバは米国陣営にあり、冷戦の影響もあってソ連の影響はかなり限定的だった。


*冷戦を象徴する映像


A:ミサイル危機後、両国の間には意見の相違が顕在化した。
G:67年、フィデルは会う度に在キューバソ連外交官を挑発したという。
A:60年代末には、ソ連と距離を置き中国やフランスに接近しようとする動きもあった。
G:その結果、活発な論争が起きたが、大勢を占めていたのは〈キューバの伝統に根ざした社会主義の模索〉だった。


*(1972年)キューバ、コメコン(共産主義諸国の経済相互援助機構)に加入  

  
G:ソビエト化は、政治的、イデオロギー的、そしてコメコンなど経済的進路から始まった。まもなくそれは家父長主義に成り変わった。
Y:ソ連のイメージは一枚岩的だった。“偉大な先輩”“護りの熊”“大バカ者”など、どれも意図的に強大だった。
F:我々は、母鳥が餌をくれるのを口を開けて待つ雛鳥になってしまった。
Y:社会主義は東ヨーロッパだけでなく、米国から90マイルにあっても広がり得るシステムだと―
A:我々は対立と共にあった。中間はなかった。黒か白か。社会主義か資本主義か。その狭間にいたのがキューバ人だ。

フィデル・カストロ:これは我々の成功への望みである。ゴルバチョフや共産党、ソビエト国民という仲間がいる。その成功を我々は望んでいるだけではない。必要なのだ。


*(1989年)ゴルバチョフ、キューバを訪問。飛行機が去っていく…


A:我々の視野にはそれまでソ連しか入ってなかった。
A:ソ連女性とキューバ人男性の夫婦はたくさんいた。東ドイツ、チェコスロバキア、ブルガリアなどで教育を受けたキューバ人は多い。私がソ連にいたころ(86~89年)にもキューバ人学生は大勢いた。
K:ソ連に留学していたキューバ人と結婚し、71年にキューバに来ました。
*両国の環境の違いは非常に大きかった。
*混在した状況
P:混成は豊かさだ。


Y:80年代の二大事件といえば、ペルー大使館かけこみ事件(マリエル難民)と米軍のグレナダ侵攻。幻滅の始まりだった。
F:ソ連の影響について分析的な視点をもつようになった。
Y:だが逆説的にもコメコンの援助を享受し暮らしは楽だった。
庶民の声:何でもあったわ。
       キューバの黄金時代だった。
       牛肉も安くて美味しかった。
       他に選択の余地はなかったが。


*ソ連のドキュメンタリーフィルム


A:ソ連の映画は、映画館でもテレビでもたくさん見られた。戦争映画や叙事詩的(英雄的)映画が多かった。自国の歴史を偽っている作品もあった。ソ連映画が消えた今では懐かしくもあるが、一般にキューバ人はソ連映画が好きじゃなかった。
Y:映画や本でソ連文化は我々を直撃した。本はよく読まれていたよ。ロシアの古典文学も数多く出版された。ドストエフスキーの全作品が認知されたのもそのおかげだ。
A:本屋の棚に並んでいても誰も買わなかった。数学、物理、化学…あらゆる書籍がソ連人の執筆で、他の世界はないも同然だった。
Y:文学は社会主義勝利への賛美でなきゃいけなかった。矛盾がなく完ぺき、物が豊かな未来を歌わなければならなかった。そこでは各自が必要に応じて働くとされていた。

A:我々の国民性や文化や政治、歴史との関係など、誰も気に掛けなかった。
Y: 『我らが先輩たちを見よ。米国や資本主義の残存する世界など思い煩う必要はない。いずれ解決される。未来は社会主義にある』。出版社も含め多くの人がその嘘を信じた。僕の書くことは悲観的過ぎると拒絶された。統制されていたんだ。戦争や大気汚染など、資本主義が消滅した未来には克服されていると。そのずっと前に出版社や検閲者の方が消滅したけどね。


*ソ連製アニメ番組
A:テレビをつければソ連の番組が流れていた。
:ソ連だけでなく東ドイツやハンガリー、チェコも。子供にはお仕置きと化していた。
A:子供のための歌もソ連に染まっていた。
K:「農作業で『ブレーメンの音楽隊』を歌いたいから」と頼まれ、歌詞をスペイン語に訳したわ。
    ♫私たちの未来はなんて幸せなのかしら” エイ、エイ!♬
*キューバの若者は、同じ歌を聞き覚えたロシア歌詞で披露
*同歌が流れるソ連製アニメ


F:1990年、すべてが崩壊した。
*レストラン「モスクワ」で火災発生。消防車が出動する
*「ベルリンの壁」崩壊 → キューバの「特別時期」の始まり)
P:火事は意味深に思えた。


*物資の不足に対応する料理番組
 “少なめの油でできるメニュー”
 “水で炒める方法”
 “水で作るフライドエッグ”
 “チョコレート・ライス”
 “オートミールで肉を増量”
主婦:途方にくれていたので、とても助かったわ。


:「モスクワ」の火災より大変なことが次々に起きた。
A:80年代の終わり、社会主義陣営から「保護者」がいなくなった。
Y:キューバの経済は粉々になった。
F:モラルのピラミッドがひっくり返り、善悪が一晩で逆転した。特に1993年にドルの使用が合法化されてからは。結果的に起きた「難民危機」「政治的緊張」「英雄教育」。システムを維持するために必要だった。

Y:ニカラグアに割安で譲っていた石油が自国の分さえ無くなり、停電が起きた。飼料が無くなり、牛肉や鶏肉に始まり物がどんどん無くなり始めた。悲しいのは、ソ連との30年間で投資が全く有効活用できていなかったことだ。
F:ふんだんに物資が与えられたおかげで、単一生産の社会を進化させなかった。工業は骨折し極貧のまま。そこから現在(2008年)に至る問題が派生している。
G:問題は90年代にいきなり起きたのではなく、ずっと以前に遡る。
そこで「社会主義をどうするか」「ソ連の遺産をどうするか」新しい展開が起きた。
Y:「たぶん~みたいだ」「どうやら~らしいぞ」と過去を幻覚視する人が現れた。「ソ連はアフガニスタンにいたらしい」とか「ソ連がキューバ人をアンゴラに行かせたようだ」とか。真相が示されていないケースもあるが、ローゼンバーグがスパイだったことは事実だ。ソ連が非難された多くの犯罪は実在した。
A:我々はソ連や社会主義陣営に保護されていて、他の世界が被っている事象に気付かないでいた。
F:こうした事が平均的キューバ人のメンタリティに影響し、キューバ人の思考はペンディング状態にある。常に何かと関連付けるか、何かに頼らなければならないんだ。


元店長:ソ連の崩壊で「特別期間」になり、終わりを迎えるが、ここ(店?)ではすべて足りていた。

A.:「特別期間」とは、1959年から1992年のことだ。我々は、いわばガラスのカバーで暮らしていたんだ。
F:「特別期間」とは、もっと我々自身ですべきことがたくさんあった期間を指す。
Y: 91年から今に至る我々の生き様こそ、社会主義がもたらしたものだ。


:私はレストラン「モスクワ」の創業者だ。オープンは74年8月13日。ご覧のとおり火事で台無しになった。ここが入口で絨毯が敷いてあって、あれがエレベーターだった。いつか改修されることを願っている。自分の家みたいな存在だから。2月12日、全壊した。思い出すと泣きたくなる。誰かの心を動かし、思い出して欲しい。それが大事だ。
F:「モスクワ」の消失は、崩壊しつつあったものを象徴していた。
A:「モスクワ」の残骸を見ても誰も何もしようとしなかった。まるで冷凍された過去の破片のようだった。
F:ソ連のことは、隠したかった亡霊のようなものだ。背後にはトラウマがある。
A:時が経ちようやく当時のことを批判、もしくは肯定的なり否定的に見られるようになった。いずれにせよ、我々の社会は多くの部分を、良くも悪くも社会主義陣営の援助に負っていた。
F:我々は今でもあの頃の物を修理したり作り直して使っている。


エンディング・クレジット
*このコピーは、視聴覚メディア学部のために、あくまで文化的目的で作られた。


Marysolより
2003年10月、「モスクワ」を下敷きに設計された店「タバリッチ」が跡地にオープンしたそうです。


嫌われたソ連製アニメと日本製アニメの人気について:
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10000812589.html


ガンチェ氏の発言は難しくて訳せなかった・・・

他の方の発言も、もし聞き取り違えていたらゴメンナサイ。

個人的には60年代末の状況が興味深かったです。

発言者の鋭いコメントに改めてキューバ人の知性を感じました。