ラテンアメリカ映画情報 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

明日20日からいよいよ東京国際映画祭が開幕します(28日まで)。
今年は20回目ということでメデタさもひとしお。
観客の積極的な参加(上映後のティーチインでの発言など)が、ゲストの監督さんたちの刺激になり、口コミで映画祭が認知され、盛り上がっていくそうです。

ぜひ一緒に盛り上がりましょう。
そういえば先月のラテンビート映画祭では、観客の積極的な姿勢がとても印象的でした。とりわけスペイン語で監督に語りかける人が多いのには感動すら覚えました。
かれこれ20年くらい(日本における)ラテンアメリカ関係の映画祭を観てきた私ですが、質問の量も質もすごくアップしたと思います。
まさに「継続は力なり」。


さて今年の東京国際映画祭。

「スペイン語圏の映画は?」というと、ありました!メキシコ映画が一本
青い瞼『青い瞼(まぶた)』

上映日 
10月21日(日)18:50 (於)シアターコクーン(渋谷)
10月23日(火)17:20 (於)TOHOシネマズ六本木ヒルズ6

作品紹介(パンフレットから引用):
イベントでペアの旅行券が当たったマリナ。でも一緒に行ける友達なんていない。知り合ったばかりのビクトルと行くべきか…
孤独な男女の揺れる気持ちをコミカルに、そしてリリカルに描いた素敵な恋愛映画。
出演:セシリア・スアレス エンリケ・アレオラ
監督:エルネスト・コントレラス


この時期、東京国際女性映画祭 も東京ウィメンズプラザで開催。
今回はなんとキューバ映画が2本も上映されます!!!
上映日 10月24日(水)
15:00~『ある方法で』
18:00~『わが心のルーツ』(『風にのせて』(吉川理絵監督)と併映)


作品紹介
De cierta manera 『ある方法で』 
1974年制作/82分
スラム地区一掃政策のなかで、教師と整備工のカップルが生まれる。
異なる環境に育った二人の愛の行方は…。
多くのドキュメンタリーを手がけ、31才で夭折したキューバ初の女性監督サラ・ゴメスが遺した唯一の劇映画。
Marysolより
『ある方法で』は以前からとても観たかった映画なので嬉しい!。
尚サラ・ゴメス監督は本作を未完成のまま他界したため、トマス・G.アレア監督やガルシア・エスピノサ監督らが仕上げました。



わが心のルーツ 『わが心のルーツ』
 2001年制作/50分
ハバナに住むアフリカ系キューバ人の若い女性が、一枚の古い写真を通して自分のルーツを探し始める。キューバの歴史に重なる曽祖父母の悲しい物語。
グロリア・ロランド監督が先達のサラ・ゴメスに捧げた作品。
Marysolより
昨年のハバナ映画祭でも、ある黒人女性のドキュメンタリーを観ましたが、キューバの歴史(特にアフロ系の人々の歴史)を知る意味でもとても印象に残りました。この作品にも期待してます。

★尚、上記の2作品の監督さんについてはVagabundaさんのブログ「ラテン!ラテン!ラテン!」で詳しく紹介 されています。

さらにもう一本!
現在渋谷のシネマヴェーラ で開催中の子供を主人公にした傑作映画の特集上映にて、チリのドキュメンタリー『100人の子供たちが列車を待っている』が上映されます。
上映日時:①10月28日(日) 11:00/14:40/18:20
        ☆併映は『誰も知らない』 
       ②10月30日(火) 12:40/15:30/18:20/21:10
        ☆併映は『先生のつうしんぼ』
100人の子供たちが列車を待っている 作品紹介
『100人の子供たちが列車を待っている』 1988年/58分 
監督:イグナシオ・アグェロ
内容
1895年パリのグランカフェで動き出した銀幕の上の列車。
映画誕生の代名詞ともいえるリュミエール兄弟の「列車の到着」を、チリのサンチァゴ郊外に住む貧しい子供たちに届けるドキュメンタリー。
子供たちは週に一回の映画の授業を受ける。想像し熟考し創作する喜びに溢れた、理屈ぬきに素晴らしい傑作


Marysolより
イグナシオ・アグェロ監督はかつてキューバ映画の名作『低開発の記憶』について、こんな事を語っています。


質問

監督自身は映画の原理への興味から、映画を撮り始められたのでしょうか。


アグェロ監督の答

幼い頃は建築や空間に興味を持っていました。
特にそういった興味はありませんでした。
映画を撮る動機となったのは、15歳の時に見た『メモリアス・デル・スブデサロジョ(低開発の記憶)』というキューバ映画です。

その時初めて映画の背後にある、監督の存在に気づいたのです。

映画の持つ空間を建物の構造のようにコーディネートしていることに魅かれ、

この映画を自分の手で作れたならと思いました。

私の国の事情を考えた場合に、私の見たままの世界を映画で表現できたなら、また、そうするべきだという気持ちが湧きあがってきました。

私の周囲で起こる出来事を理解し易くし、私自身が理解していく為にも映画を作ることが必要でした。(『イメージフォーラム』1990年1月号より)

『低開発の記憶』がラテンアメリカでどのように観られたのか、とても参考になる言葉だと思います。