Red Cockroaches (2004) | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
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レッド・コックローチズ(赤いゴキブリ)』(82分)2004年(米国にて製作)

監督・脚本・撮影・編集・音楽:ミゲル・コユーラ


     レッド・コックローチズ

あらすじ
退廃した近未来のニューヨークを背景に展開する欲望と愛憎の渦巻くフィルム・ノワール風サイエンス・フィクション。
謎のDNA21グループにコントロールされ、酸性雨が降る近未来のニューヨークに住む主人公アダムは、ある日地下鉄のホームで神秘的な若い女性リリーに出会う。すぐに姿を見失ってしまうものの、なぜかその後も彼女との思いがけない出会いが繰り返される。やがて二人の間には、陰湿な家族間の秘密が潜んでいたことがわかるのだが、動き出した悲劇の宿命は止めようもなく・
・・


作品ノート
ミゲル・コユーラ監督は、ハバナ郊外のサン・アントニオ・デ・ロス・バニョスにある国際映画学校で映画制作を学んだ後、奨学金を得てNYリー・ストラスバーグ・インスティテュート)に留学中、かねてから構想を暖めていた本作品を撮ることを決意。お金をかけられない分、撮影に一年、編集に同じく一年、費やしたそうです。ちなみに製作費用はわずか2000ドル。その話をすると、誰もが一様に「無謀」と呆れるそうですが、彼にしてみれば、それまでの作品と比べたら“超”高額「キューバで育つと、世界のどこへ行ってもやっていけるようになる。“無”から多くを成すよう鍛えられているから」と、同胞にエールを送っています。


さて『レッド・コックローチズ』は自作の小説『Mala Onda(英語タイトルはオーシャン)』(未発表)をベースに、彼が製作したいと考えている三部作の第一作目に当たる映画。
そこに描き出された世界は、陰鬱で退廃的でシュール。それは監督が自称“ペシミスト”だから?
先日の埼玉県川口市で開催された映画祭上映後の質疑応答では、「次のストーリーでは、希望が垣間見えることを期待したい」という観客の声「いいえ、ますます暗黒の世界になっていきます」と答えていましたっけ(どうも監督は“ノワール”に、ある種の美を見ているようです)。


「ゴキブリは何を象徴しているのか?」という質問も出たのですが、「それは観客一人一人の自由な判断に委ねます。僕個人の解釈もあるけれど、敢えて言わないでおきます」との返答でした。
それを聞いて「彼らしい(キューバ人監督らしいという意味で)」と思ったのですが、その彼の意思に反して、ここでは私がネットで拾った彼の答えを公表してしまいましょう。
(ミゲル、怒らないでね)
「ゴキブリは、すでに小説『Mala Onda』のなかで、歴史上の汚染の産物として登場する。つまり、社会が到達したところのものを表象するシンボルのようなもの」
「映画でゴキブリは時々姿を現すけれど、テーマに直接の関係はない」
「なぜ“赤い”かは全く説明していない。観る人の解釈に任せる」。
ただし、キューバが共産主義の国だからという解釈はハズレ。
スキップシティ上映時の挨拶では「赤は情熱の色。僕の好きな色」と言っていたように記憶していますが、その言葉と関係があるのか、ないのか?
いずれにせよ「単一の解釈しかできないシンボリズムは嫌い」だそうです。


さて『レッド・コックローチズ』はキューバ人ミゲル・コユーラが全部一人で製作したとはいえ、俳優はアメリカ人だし、言語も当然、英語です。背景も近未来のニューヨークだし、何も知らないで見たら「これがキューバ映画」だとは誰も思わないでしょう。
もちろん知ってみても、全然そう見えません。
そもそも彼自身がそういう“見方”を拒否しているのですから。
「僕は単なる監督。映画は個人の芸術であるべきだ。キューバ的なるものは、僕にとって単なるディテールに過ぎない」。
この“個人”にこだわる姿勢は、“キューバ映画”という枠のなかで捉えれば、明らかに“新しい兆候”ではないでしょうか。(そういえば、SF映画も初めてだし)
彼はキューバでも常に自分はインディペンデント映画を製作してきたと言っていますが、今後その芽がどう育っていくのか、気になるところです。
もっとも私は「キューバ映画を通してキューバ社会を覗こう」としているので、彼のような極めて“個人的映画”では、それは出来なくなりますが・・・
いずれにせよ、今回『レッド・コックローチズ』を通して、キューバ映画の変わり目やこれまでの特徴を改めて意識させられました。

 
尚、本作品の上映は、今のところ映画祭などに限られています。海外では「アメリカ映画」または「米=キューバ製作」として出品されているようです。


一方キューバでは、スペイン語の字幕付きで(映画祭という枠内ながらも)様々な映画館で一般公開されたそうです。ミゲルによると「賛否両論あったけれど、評価してくれる批評家もいるし、若い観客たちには受けた」とのこと。
そして“映画上映の機会”という問題については、「広範囲の人の目に触れるという意味では、キューバの方が可能性が開けている。アメリカでは、収益や商業的アピールに結びつかない限り、存在しないも同然だから。でもキューバでは、僕のこれまでの作品は映画館だけでなく、テレビでも放映されている。だからと言って、僕には一銭の利益も入ってこないが、自分の作品が多くの人々と接点をもてるのは素晴らしいことだ」と言っています。


「キューバにこだわるより、コスモポリタンでありたい」と言うミゲル・コユーラ監督。今後の活動の場、発表の場がどう展開するのか、期待しつつ見守りたいと思います。