広島原爆投下から

79年目の日に

ー被爆者の無念と原爆裁判ー

1945/2024年8月6日 

記事の一部に被爆時の惨状の写真があります

 

 

朝日新聞(1945年8月8日)

 

【原子爆弾の投下と被害】

1945(昭和20)年8日6日午前8時15分、広島に人類史上初めて実戦使用された原子爆弾が投下されました。

 

この日の朝広島では、午前7時9分に警戒警報のサイレンが鳴りましたが、米軍のB29爆撃機1機が高高度(7、8千メートルから1万メートル前後)を通過しただけだったので、午前7時31分に警報が解除され、防空壕などに避難していた人びとは、家に帰って朝食を取ったり、仕事に出かけたりしていました。

 

ところが実は、原爆投下に先立って広島上空に飛来したこのB29は気象観測機で、広島上空は雲が薄く目視(爆撃目標を搭乗員が目で確認すること)可能なので、予定通り爆撃せよとの気象報告を、北マリアナ諸島テニアン島の基地に発信していました。

無害と見えたその飛行機は、まさに「地獄の先触れ」だったのです。

 

B29爆撃機

 

気象観測機からの報告を四国上空で傍受して広島に接近して来たB29の3機編隊に、日本側の中国軍管区司令部は午前8時過ぎに気づき、午前8時13分に警戒警報発令を決定しましたが、伝達が十分できないうちにB29が広島上空に到達、原子爆弾が投下されたのです。

 

幟町(のぼりちょう)にあったNHK広島中央放送局で警戒警報発令をラジオ放送しようとしていた古田正信アナウンサーは、その時のことを次のように手記に書いています。

 

 八時十三分、中国軍管区情報、『敵大型三機、西条上空を西進しつつあり、厳重な警戒を要す』 私は廊下を歩きながらサーッと原稿に目を通し、スタジオに入るなりブザーを押した。

 時に八時十五分『中国軍管区情報 敵大型三機 西条上空を―』ここまで読んだとき、メリメリッと烈しい音とともに、鉄筋の建物がぐらっと傾く感じがし、フワーッと体が宙に浮き上がった。(中略)目の前にあったマイクロフォン、ストップウォッチはおろか、テーブルまでもが影も形もない。

 

(サイト「悠久の風吹く千曲市上山田」所収の

「幻の声(男性職員の動向)」)

 

被災した広島中央放送局

(1945年末に川本俊雄さん撮影)

*復旧された建物も1997(平成9)年に解体された

 

当時は、警報のサイレンよりもラジオ放送の方が情報が早かったので、広島の人たちは警報発令を知らず、警戒態勢を取ることもできないまま、突然に原子爆弾の爆発に見舞われることになったのです。

 

リトルボーイと名づけられたウラニウム型原子爆弾を搭載したB29「エノラゲイ」は、高度9632メートルで相生橋*に照準を合わせ、午前8時15分17秒に原爆を投下しました。

 *広島の中心部に近く、独特のT字形が上空から視認しやすいため、投下目標にされた(実際の爆心地は下図のように少しずれている)

広島市HP「原爆ドームの歴史」(加工の一部は小川)

 

広島の原爆の爆発で生じた原子雲(いわゆる「きのこ雲」)

「カメラが捉えたヒロシマ;アメリカの歴史に残る汚点」

(ParsToday 2020年8月6日)

 

 原子爆弾は、投下から43秒後、地上600メートルの上空で目もくらむ閃光を放って炸裂し、小型の太陽ともいえる灼熱の火球を作りました。火球の中心温度は摂氏100万度を超え、1秒後には半径200メートルを超える大きさとなり、爆心地周辺の地表面の温度は3,000~4,000度にも達しました。
 爆発の瞬間、強烈な熱線と放射線が四方へ放射されるとともに、周囲の空気が膨張して超高圧の爆風となり、これら3つが複雑に作用して大きな被害をもたらしました。
 原爆による被害の特質は、大量破壊、大量殺りくが瞬時に、かつ無差別に引き起こされたこと、放射線による障害がその後も長期間にわたり人々を苦しめたことにあります。

 原爆被害の概要についてもっと詳しくお知りになりたい場合は、ヒロシマ・ピース・サイト(広島平和記念資料館ホームページ)をご覧ください。

(広島市HP「原爆被害の概要」)

 

その日、広島には約35万人(民間人30万人、軍関係者5万人)の人びとがいたと考えられており、推計ではその年(1945)の12月までに約14万人が亡くなりました。

その後も犠牲者の数は増え続けましたが、正確な死者数は分かっていません*。

 *広島の原爆死没者慰霊碑に納められている死没者名簿には、2023年8月6日の時点で、33万9227人の名前が記載されています

 

慰霊碑の前で死没者名簿の「風通し」をする広島市職員ら

(毎日新聞、2021年5月19日)

 

犠牲者の中には、「日本人だけでなく、米国生まれの日系米国人や、ドイツ人神父、東南アジアからの留学生、そして、当時日本の植民地だった朝鮮と台湾、さらには中国大陸からの人々、そして米兵捕虜など、様々な国籍の人がおり、こうした方々もいやおうなく原爆の惨禍に巻き込まれました。」(広島市HP「死者数について」)

 

原爆投下が引き起こした惨状ともたらした被害の大きさは、とても言葉で言い表せるものではないでしょう。

私たちは、残された遺物や遺品、記録や文学、そして何より被爆した方たちの証言から想像力を働かせるしかないのです。

 

広島県産業奨励館の残骸(原爆ドーム)と廃墟と化した市街

BuzzFeedNews(2018年8月6日)

 

焼け焦げ眼球が飛び出した兵士の遺体

強烈な爆風圧により瞬間的に周囲の気圧が下がり、

眼球や内臓が飛び出す現象が起きた

(1945年8月10日  中田左都男さん撮影)

 

火傷(やけど)を負った女性

(8月 陸軍船舶司令部撮影)

 

死傷を免れたかに見えた被爆者も、

放射線障害によって生涯苦しめられることになる

「脱毛 食慾不振 歯眼出血 発熱」などが始まった姉弟

(1945年10月6日 広島赤十字病院 菊池俊吉さん撮影)

 

【原爆裁判/下田訴訟と国際法違反の非人道的な原爆投下】

1955(昭和30)年4月、広島と長崎の被爆者5人が、原爆投下を国際法違反と訴え、アメリカへの賠償請求権を放棄した日本政府に補償を求める裁判を起こしました。

「原爆裁判」と呼ばれるものです。

 

原告となったのは、下田隆一、多田マキ、浜部寿次、岩淵文治、川島登智子(敬称略)の5人で、浜部さんだけが原爆で妻と4人の娘を失った長崎の被爆者です。

 

広島市の「原爆被害者の会」を通じて原告に加わった下田隆一さんの名前が原告リストの最初にあげられていたことから、この裁判は海外では「下田訴訟*(シモダ・ケース)」として知られています。

 *日本では「下田事件」と書いている記事等がありますが「下田訴訟」が適切だと思います(英語のcaseは「訴訟」「犯罪事件」どちらの意味でも使われる)

 

下田隆一さん

 

1898(明治31)年にハワイの移民家庭に生まれた下田さんは、23歳の時に両親の故郷である広島に帰り、結婚して8人の子どもに恵まれました。

 

1945年8月6日、47歳だった下田さんは、住んでいた中広町(なかひろまち)の家の外に出たところで被爆しました。

 

爆心から1.4キロ離れた中広町の焼け跡

(アメリカの調査団が1945年10月に撮影)

 

「パーッと空に光りが出た。すると殆(ほとん)ど同時に私は頭上にかざしていた右の腕が焼けるような熱さを感じました」と、後に下田さんは被爆体験を語っています(中国新聞「家族12人失った原告も【ヒロシマの空白 未完の裁き】⑧シモダ・ケース」2024年4月29日)

 

崩れた家から叫ぶ妻を救出した下田さんですが、外出していた5人の子どもたち(16歳、12歳、10歳、7歳、4歳)は2度と家に戻ることはなく、遺骨さえ見つかりませんでした。

 

「右腹部から左背部にわたってもケロイドがあり毎年春暖の節には化膿(かのう)し又腎臓及肝臓障害があって現在全く職業につくことができない」と被爆後の窮状を訴えた下田さんは、「世界のどこの人でも私たちが受けた苦しみを受けることのないよう」にとの思いで裁判に加わったのです。

 

被爆した男性(下田さんとは別人)の背中と両腕のケロイド

1947年 広島赤十字病院

 

原爆投下は国際法違反であり、アメリカ政府やそれに関わった指導者に損害賠償の民事訴訟を起こすことが法的に可能であると提唱し、「原爆裁判」の原告代理人弁護士の中心として下田さんらの訴訟を支えた人が、大阪弁護士会所属の岡本尚一弁護士でした。

 

事務所での岡本尚一弁護士(右)

 

1891(明治24)年に三重県に生まれた岡本弁護士は、戦後開かれたいわゆる「東京裁判」(極東国際軍事裁判)で、依頼されてA級戦犯のひとりだった武藤章陸軍中将の弁護人を務めます。

 

極東国際軍事裁判(東京裁判)

 

武藤中将は有罪となり絞首刑に処せられますが、裁判の過程で岡本弁護士は日本軍がおこなった数々の残虐行為を知り大きな衝撃を受けます。

と同時に彼は、戦争の勝者である連合国側の重大な国際法違反の責任が問われないことに強い憤りを覚えたのです。

 

その重大な国際法違反のうち最も残虐なものが、広島と長崎にアメリカが投下した原子爆弾でした。

 

岡本弁護士は、国際法に違反するアメリカによる原爆投下の責任を裁判で問うことができないか研究を重ね、損害賠償を求める民事訴訟を起こすことができると結論した9ページの小冊子「原爆民訴或問(げんばくみんそわくもん)」を1953(昭和28)年5月に日本語版と英語版にまとめました(中国新聞「投下は違法」米提訴唱え【ヒロシマの空白 未完の裁き】③原爆民訴或問」2024年4月23日)

 

岡本尚一「原爆民訴或問」

 

岡本弁護士の当初の計画は、アメリカ政府とトルーマン大統領(当時)を相手にした米国内の裁判所での民事訴訟でしたが、アメリカの法律家の協力がまったく得られず、また1951(昭和26)年9月8日に締結され1952年4月8日に発効したサンフランシスコ平和条約の第19条(a)項で、連合国側へのすべての請求権を日本側が放棄したため、代わって日本政府に補償(1人20万円から30万円)を求めることで原爆投下の責任を間接的に問う民事訴訟へと切り替えたのです。

原爆投下を承認したトルーマン大統領

 

日本国は、戦争から生じ、又は戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄し、且つ、この条約の効力発生の前に日本国領域におけるいずれかの連合国の軍隊又は当局の存在、職務遂行又は行動から生じたすべての請求権を放棄する。

「サンフランシスコ平和条約」第19条(a)項

 

サンフランシスコ平和条約に調印する吉田茂首相(当時)

 

下田さんらの訴えに対して日本政府は、原告に損害賠償請求権は認められず、また原爆の使用は合法であると主張し、真っ向から争う姿勢を示しました。

 

原告代理人弁護士の岡本尚一さんと広島出身の松井康浩弁護士(東京弁護士会)の2人は法廷で、主に法律の解釈をめぐって被告の国側と論争を繰り広げました。

 

1955年4月の提訴から8年半にもおよぶことになる原爆裁判がまだ道半ばだった1958(昭和33)年、岡本弁護士は66歳で亡くなります。

 

その後は松井弁護士が原告代理人の中心となって奮闘し、1963(昭和38)年12月7日にようやく判決公判を迎えました。

 

余談ですが、この裁判を担当した東京地裁民事第24部の3人の裁判官のひとりに、2024年度前半のNHK朝ドラ「虎に翼」の主人公・佐田寅子のモデルになった三淵嘉子(みぶちよしこ)裁判官がいました。

 

三淵嘉子裁判官

 

判決公判で古関敏正裁判長は、原告の請求を棄却するとして国側勝訴の判決を言い渡しました。

 

しかし同時に、原子爆弾投下後の広島・長崎の惨状について、「人は垂れた皮膚を襤褸(らんる=ぼろ)として屍(しかばね)の間を彷徨(ほうこう=さまよう)、号泣し、焦熱地獄の形容を超越して人類史上における従来の想像を絶した惨鼻(さんび=むごたらしい)の様相を呈したのであった。このように、原子爆弾の加害影響力は、旧来の高性能爆弾に比べて著しく大きく、しかも不必要な苦痛を与えることも甚(はなは)だしく、その上その投下が無差別爆撃となることも必至であって、極めて残虐な害敵手段である」とした上で、「原子爆弾の投下は、当時日本国と交戦国の関係にあった米国によってなされた戦闘行為であるが、それは当時の実定国際法(条約及び慣習法)に反する違法な戦闘行為である」としました。

 

詳細は省きますが、判決文では次のような実定国際法(④はそれに準じるもの)をあげ、「当時の実定国際法として、原子爆弾についても当然適用されるものである」としています。

 

①「サンクトペテルスブルク宣言」(1968年):戦闘外に置かれた人の苦痛を無益に増大したり落命を必然とする兵器の使用は人道に反するものとして、使用の自由を放棄することを約している

②「ハーグ陸戦条規」(1899年):不必要な苦痛を与える兵器の使用や防守せざる(軍隊によって守られていない)都市の攻撃又は砲撃を禁止し、攻撃の目標は軍事目標に限るべきことを規定している

③「第二回ハーグ平和会議」(1907年):特殊弾丸(大きな苦痛を与えるいわゆるダムダム弾)の使用禁止宣言、「ジュネーブで採択された確定書」(1925年):毒ガス等の禁止

④「空戦法規案」(1923年):普通人民を威嚇し、軍事的性質を有しない私有財産を破壊し、非戦闘員を損傷することを目的とする空中爆撃を禁止し、さらに、空中爆撃は軍事目標に対して行われた場合に限り適法とするなど。違反した交戦国は、身体又は財産上の損害について賠償金を支払わねばならないことを規定している

 

そして、原爆の使用は合法だという国(被告)の主張については、「被告は戦争においては敵国を屈伏させるまでは、限定された明示の禁止手段以外ならば、いかなる手段でも用いることができるという見解のようであるが、それは死の商人ならぬ死の政治家の言であって、きわめて遺憾である」と厳しく批判しました。

 

法解釈論から原告の補償請求権を認めなかった裁判所ですが、「国家は自らの権限と自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人々を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことは、とうてい一般災害の比ではない。被告がこれに鑑み、十分な救済策を執るべきことは、多言を要しない」とし、「それはもはや裁判所の職責ではなくて、立法府である国会及び行政府である内閣において果さなければならない職責である。(中略)終戦後十数年を経て、高度の経済成長をとげたわが国において、国家財政上これが不可能であるとはとうてい考えられない。われわれは本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられないのである」と、原告だけでなく原爆被害者全般に対する救済策を国が講じるべきだと述べたのです。

 

詳しく知りたい方は、判決文をご参照ください。

 

この判決に対して、原告、被告とも控訴しなかったために、世界で初めて原爆投下を国際法違反と判断した画期的な東京地裁判決が確定したのです。
 

判決後に記者会見する松井康浩弁護士(右)

 

この判決は、「核兵器の使用、使用の威嚇は国際法に違反するか」についての勧告的意見を求められた国際司法裁判所が、1996(平成8)年に、国家存亡の極限状況においては違法・合法をいえないとしながらも、「核兵器の使用、使用の威嚇は、一般的に、国際法に違反する」としたその判断枠組みに影響を与えたと評価されています(大久保賢一「「原爆投下は国際法に違反する」との判決を想起しよう」日本反核法律家協会のサイト、2013年)

 

ただ、裁判所が原告の訴えのメインであった補償請求権を認めなかったことに対しては、下田さんや松井弁護士らは強い批判と深い失望をあらわにしました。

 

けれども、彼らの闘いは被爆者救済の面でも実を結ばなかったわけではなく、「原爆裁判」提起後の1957(昭和32)年に「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」が、被爆者に国は「十分な救済策をとるべき」とした地裁判決後の1968(昭和43)年には「原子爆弾被爆者に対する特別措置法」が制定され、それらは1995(平成7)年施行の「原子爆弾被爆者の援護に関する法律」(被爆者援護法)へとつながっています。

 

ただその一方で、被爆者援護にかかる医療費などを増やさないために、「黒い雨*」を浴びるなどした地区の人たちでも国が「被爆者」となかなか認めないといった問題は、今日に至るも続いているようです(毎日新聞「「被爆地拡大 歯止めに作成」 広島高裁が痛烈批判の44年前報告書」2024年8月4日)

 *原爆投下後に降った、放射性物質を含んだ雨

 

被爆体験者を被爆者と認めるよう訴える長崎の岩永千代子さん

毎日新聞(2024年8月4日)

 

サムネイル
 

小川里菜の目

 

2024年1月23日

 

これは「世界終末時計」(英語ではDoomsday Clock)の2024年の発表時の写真です。

アメリカの科学雑誌「原子力科学者会報」(Bulletin of the Atomic Scientists)は、アメリカとソ連(現在のロシア)による東西の「冷戦」が始まった1947年以来、核戦争で人類が滅亡する時間を真夜中の0時とし、今は何時かを示したこの時計の絵(毎年更新)を表紙に掲載してきました。


下図のように終末時計の針は、核戦争の危機が強まったり弱まったりするにつれて、進められたり戻されたりしてきました。

 

近年では、核戦争だけでなく気候変動やパンデミック(感染症の世界的流行)のリスクなども考慮されているそうですが、「冷戦」が終わった1991年には17分前と大きく戻された時計の針が、2023年にこれまでで最短の「残り90秒」にまでなり、そして2024年もそれが維持されています。

 

 

そこには、先に述べたような気候変動や感染症の問題もありますが、2022年に始まったウクライナの戦争で、ロシアのプーチン大統領が「戦術核兵器」の使用の可能性を何度もほのめかし、それが核ミサイルの飛び交う第三次世界大戦にまで拡大するのではないかとの懸念が影響しているでしょう。

 

また、2023年11月にはイスラエルの閣僚のひとりが、ガザ地区での核兵器使用も選択肢と発言し、世界中に大きな波紋を広げました。

その閣僚はすぐにネタニヤフ首相によって職務停止処分となりましたが、核兵器の使用発言を問題にしたというより、核兵器保有を公には認めていないイスラエルの閣僚がその使用に言及したことを問題にされたのだという見方もあるようです。

 

このように、単なる抑止力の話ではなく、核兵器の使用について指導的立場の人が口にするようになった今の世界に、小川はとてつもない驚きと怖さを感じます。

 

核兵器は、広島・長崎の惨状が示したように、大量・残酷・無差別に人間たちを殺戮し、生き残った人にも長期間にわたって苦しみを与え続け、さらには次の世代にも悪影響を及ぼす国際法違反の非人道兵器であり、全廃するしか人類の生きる未来はないと小川は思います。

 

2017(平成29)年7月7日の国連総会で、核兵器の全廃を目指し核兵器を包括的に禁止する人類史上初めての国際条約である「核兵器禁止条約」が採択され、規定の50カ国が批准した2021年1月22日に発効しました。

 

この条約は、核兵器の非合法化と廃絶をめざし2007年に設立された国際NGO(非政府組織)の「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN:International Campaign to Abolish Nuclear Weapons)が各国政府に働きかけて実現したものです。

 

ピースマークに核ミサイルがへし折られたICANのシンボル

 

しかし、世界の核保有国やNATO諸国など主要国が条約に加わっておらず、せっかくの条約が実効性を発揮するまでには至っていません。

 

そして何より残念なのは、核兵器の非人道性を身をもって体験したはずの日本が条約に不参加であるだけでなく、ドイツのように会議へオブザーバーを派遣することすら拒み、完全に背を向けていることです。

 

79年前の今日8月6日に史上初めて原子爆弾が使用された広島と、3日後の8月9日の長崎で、命を奪われ放射線障害で苦しめられた多くの被爆者の無念をもとに「原爆裁判」が切り拓いた核兵器廃絶への道を、私たちはもう一度思い起こす必要があるのではないでしょうか。

 

そんな理想をいくら掲げてみても、現実は何も変わらないという冷ややかな声の方がきっと多いことでしょう。

 

それに対して、次のような逸話を最後にあげておこうと思います(佐田尾信作「『論』 戦後10年の原爆裁判 「義の人」の信念 いずこへ」中国新聞、2016年5月26日)

 

原爆裁判のいわば仕掛け人で、裁判の途上で亡くなった岡本尚一弁護士の葬儀の場でのことです。

 

父親が文字通り心血を注いできた原爆裁判に対して、同じ弁護士であった息子の岡本拓さんは、「どうせ徒労に終わるだろう」と冷ややかに見ていたそうです。

 

ところが、父の葬儀の場で友人代表が述べた、「「蟷螂の斧(とうろう の おの:カマキリの前足)(自分の非力をかえりみずに強者に立ち向かうこと)のような努力こそが歴史をつくる」という弔辞に拓さんは感銘を受け、自分の不明を恥じたそうです。

 

「どうせ自分などがこんなことをしても……」と諦めることからは何も生まれません。

 

もしも核兵器の全廃が間違った目標でないのなら、たとえ小さな努力であっても、その積み重ねがいつかは歴史を動かすという「志の力」を、私たちは決して失ってしまってはいけないと思うのです。

 

それが、ヒロシマ・ナガサキの被爆者の無念を忘れることなく引き継ぐことだと小川は思うからです。

 

 

最後までお読みくださり、

ありがとうございましたおねがい

次回もぜひよろしくお願いします飛び出すハート