世の中、迷信、統計に惑わされることがある。

迷信は、主に家を建てるときや、葬式のときなどに付きまとう。

病や災いを恐れるがあまり、迷信に惑わされる。

統計は、血液型、生年月日、家族・兄弟の構成などから、性格を知ろうと思うときに付きまとう。

外見からは分かりにくい、人の性質を知りたいと思うために。

迷信も統計も半分当たって半分外れる。

あるとも言えるし、ないとも言える。

本当のところは分からないままだ。

少しでも人に近づくためには、勘を働かせることが必要だろう。

勘を働かせずに、簡易な話題を作るために、迷信や統計にしたがって、人を決めつけたくなる。

迷信や統計は、それを強調すると、いずれも偏見になる。

しかし、それを強調しなければ当たっているところも多くある。

人の社会の原則は、一面を見て、他面を見ないことだ。

実際には良いことと悪いことは、表裏一体であるから、強調しなければ両面の性質から半分は当たることになる。

人を知るには、勘としての観る力を働かせる以外にない。

観る力は自分を観る力から作られる。

簡易な迷信や統計に踊らされないためにも、観る力が必要になる。

観る力は楽しさからは生まれてこないものだ。

観る力は苦しさから生まれてくると言っても過言でないだろう。

楽しく過ごせるときになど、何も観る力は必要とならない。

その場を楽しめば良いだけになるからだ。

しかし、苦しみにうちひしがれるときにも観る力は生まれてこない。

苦しいときには、観る力が生まれる想像は働かないからだ。

楽しくも苦しくもない状態、一面のみを強調しない状態にこそ、観る力が宿り、人を束縛から解放してくれるものだ。カエルあせるナゾの人