阿弥陀仏信仰

お寺さんでは年に三回行事があるので、その度に寸志を持っていっている。

その行事は、春の永代永代経、秋の永代経、報恩講である。

現在、2つのお寺さんとの付き合いがある。

1つは檀家になっているお寺で、もう1つは同じ部落(近所)のお寺である。

いつもなら忘れていないのに、この前完全に檀家になっているお寺の秋の永代経を忘れてしまっていた。爆弾

うちは、じいちゃん・ばあちゃんが生きていたときには、なんと4つのお寺と付き合っていたのだ。目

農業をやっている者にとってみれば、お寺との付き合いは大変重要なものだったのだろう。

助け合いの村付き合いである。

今となっては、農業を職業とする者はほとんどいないが、過去は農業が当たり前だった。

阿弥陀仏信仰にはかなりの歴史がある。

私の住む地域は、戦国時代に一向一揆で有名になったように、福井県のとある地域と並んで阿弥陀仏信仰が盛んなところだったのだ。

私の世代になると、もうそのような信仰はなくなろうとしている。

むろん私の家は両親が早く亡くなったので、檀家等の中で私が一番若そうだが・・・。

信仰を忘れてしまった日本人。

しかし、誰にでも機会さえあれば信仰する意味は分かってくるものだ。

現代は、そのような機会が極端に少なくなっていっているのだろう。

心で考えるよりも、頭で考えることの方が優先されているようだ。

悲しいことであるが、今後もこの流れが変わることはなさそうだ。

お経と言えば葬式、法事のときに挙げるものだと誰しも思っている。

現代に信仰は要らないのだろうか。

そういう私も、若いときには信仰など要らないと思っていた。

信仰は、自分で努力して解決する力のない、弱い者のすることだと・・・。

ところが、それは自分しか信じないような生き方を作り出してしまう。

そうすると、自分の利益最優先の社会になってしまう。

自分ではない他人を信じることの大切さを教えてくれるのが信仰ではないだろうか。

信仰にはお布施が伴うので、現実的な負担は増える。


しかし、果たして信仰を止めてしまっていいのだろうか。


今後のキーワードである、利他、助け合いの社会の実現に向けては、信仰に近いものは欠かせない。


感謝と癒しに、なまんだぶ音譜なまんだぶ音譜