こんにちは!

 

台風来たり、雨が続いたりと嫌な天気が続きますが皆さんお元気ですか?

 

私は、先週予定していたリレーマラソンが中止になったり、雨のせいで毎朝のジョギングが途絶えがちですが、元気に過ごしています。

 

今日は、ハロウィンを予定していたのに、またまたこの雨で、結局、家で過ごしています。

 

そして、今日は私の54回目の誕生日。

 

四捨五入ということを考えると、アラフィフと呼べるのもこの歳が最後なのでしょうか?

 

ま、今さら年齢を気にしても、しょうがないので、今日は淡々とブログを書き進めます。

 

お友達のブログに「たんたんとしていないブログ」というものがありますが(笑)、今日の私はいつもとは、趣向を変えて淡々としたブログにしてみたいと思います。

 

今日のテーマは、私のブログのトップや、プロフィールにある、自分を性同一性障害と表現しない理由について書いてみたいと思います。

 

はい、私は性同一性障害では無く、心身共に健康なトランスジェンダー女性です。

 

ご存知の方も多いかも知れませんが、性同一性障害(GID:Gender Identity Disorder)という言葉は、精神科のお医者さんが診断する時に用いる疾患名です。

 

そう、病気の名称ですね。

 

世界保健機関(通称WHO)が発行する、ICD-10と呼ばれる疾病の分類マニュアルの中のF64と呼ばれる分類項目のなかに精神疾患として掲載されています。

 

私は、過去にジェンダークリニックを複数受診し、性同一性障害であるという診断が下されましたし、過去に、私も自分自身の事を説明する為に性同一性障害という言葉を用いたこともありました。

 

でも、そうやって他人に性同一性障害であることを説明する度に返って来る、

「今まで苦しい思いをしてきたのね。よく頑張って耐えてこれたのね。」

という同情的な反応に、違和感を覚えていました。

 

果たして、自分はそんなに苦しんで来たのだろうか?

 

それと同時に、そもそも私は精神疾患なのだろうか?

 

とも思う部分もありました。

 

確かに第二次性徴を迎えた頃、多少悩んだりしたこともありましたが、自分自身が男性として生まれてきたことは、しっかり自覚していましたし、仮にそのまま男性として生きていくしか道が無かったとしても、絶望して死を選択するようなことは無いと思います。

 

どちらかと言うと、よりよい人生を生きて行く為に、女性として生きて行く決断をしたと言った方が正解だと思います。

 

あるとき、性同一性障害(GID)を自認するMtFの方がこんなことを話してくれました。

 

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「私は、生まれた性別が男性だからと言って、女性になりたい訳じゃ無いのです。『心の性』と『体の性』が一致させることができ、この苦しみから解放されるのであれば、どちらの性で生きるかなんて、どうでも良いのです。

そして、それこそが『真の性同一性障害』であり、救われるべき存在なのです。

よく聞く、MtFさんの『女になりたい』などという願望は、単なる女装や自己女性化愛から来る欲望であって、心に苦しみを抱えた『真の性同一性障害(GID)』というより、それはGIDを装った『エセGID』なのです。」

 

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この話を聞いた時、なるほど、彼女のような苦しみを抱えた人々は、治療という言葉を持いて救われるべき存在であると素直に思いました。

 

それと同時に私は、今後一切、自分のことを説明する為に「性同一性障害(GID)」という言葉を使うのも止めようとも思いました。

 

『真のGID』の方たちが不快な思いをするのなら、ましてや『エセGID』などと、揶揄されるぐらいなら、キッパリその肩書は捨ててしまおうと。

 

私は、残念ながら自分の「心の性」がどうなっているか良くわかりません。

 

ステレオタイプ的な言い方を承知で書くと、女っぽい部分もあれば男らしい部分もあるのでしょう。

 

でも、一方で、それがどうした?とも思います。

 

そもそも、心に性別なんてあるのでしょうか?

 

仮に心の性別があったとしても、そしてそれが何であれ、私にとっては、そんなことどうでも良いのです。

 

私は単に「女性として社会で生きて行きたい」、そう思っているだけなのです。

 

女性として生きて行く為には、この理由だけではダメなのでしょうか?

社会では許されないことなのでしょうか?

 

一方、性同一性障害と並んで良く使われる言葉にトランスジェンダーというものがあります。

 

社会・文化史研究家の三橋順子さんの言葉では、「性別越境者」と表現されています。

文字通り、生まれた性別を越境(トランス)して、生きて行くことを示している訳です。

 

勿論、それは医師が診断する疾患名称では無く、お医者さんがどう診断しようが、本人にその意思があり、行動すれば、それは紛れも無いトランスジェンダーという定義です。

 

心の性別などという不確かな尺度や、医師の診断などとは無関係に、本人の意思、行動から生まれる言葉です。

 

私は、精神科医が私をどう診断したか?ということより、自分自身が「どう生きて生きたいか?」を考えることの方が、自分の人生においてはより重要だと考えます。

 

過激な言い方をすれば、自分の性別は自分で決めるべきで、精神科医に決めて貰いたいなんて思いません。

 

LGBTという言葉は、「(L)レズビアン、(G)ゲイ、(B)バイセクシャル、(T)トランスジェンダー」の頭文字であって、決して「L、G、B、GID(性同一性障害)」ではありません。

 

LGBにおいて、性指向で差別するべきで無いのと同じように、ジェンダー・アイデンティティ、即ち、どの性別で生きて行くかという問題で差別されるべきではありません。

 

ゲイの人が、自分を語る時にお医者さんの診断が要りますか?

 

勿論、性同一性障害を自認する方々にとって、生きやすい社会を実現することは大切なことです。

 

しかし、性同一性障害で無くとも、本人の意思に沿って望む性で生きて行きやすい世の中であって欲しいとも思うのです。

 

時々、ブログを見ていると「性同一性障害の診断が下りました( ^ω^ )」と、まるで何かの資格試験にでも合格したかのように喜びを交えて書いてあったりする記事を見かけます。

 

精神疾患の診断を下されることって、そんなに喜ばしいことなのでしょうか?

 

勿論、ホルモン治療や性別適合手術、氏名の変更、など、日本社会の制度上、その診断が必要であるからこそ、そのような書き方になることは承知しています。

 

しかし、精神疾患である診断を取得することによってのみ、本人の望みが叶えられる社会の仕組みというのは、どこかいびつな気がするのです。

(トランスジェンダーにとって精神科医を含め、今後も医療の関わるべき重要性を否定している訳では決してありませんので、一応念のため)

 

病気だから、認められる」のでは無く、「病気じゃ無くても、本人の意思が尊重される」世の中になって欲しいという、ささやかなる抵抗の意味も込めて、私はこれからも自分のことを説明するのに「トランスジェンダー」と言う言葉を使っていきたいと思うのです。

 

誰のせいでもなく、自らの意思で選んだ道なのですから。

 

淡々と書くつもりが、少し暑苦しい主張になってしまったかな(;^_^A

 

では、また(^_-)-☆

 

 

 

 

最近、久しぶりジーンズを履きました。ピタピタでした(;^_^A

 

 

 

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