旺季志ずかだよ
昨日の夜中、遅くまで、ハッピーとラインで話してて
ハッピーの意識が、相当 分離感がないことを改めて知ったの。
大切な仲間と一時的に別の道を行くことになり、
私は哀しくて、切なくて。
それが、そのひとにとって、真実だってわかってるのに
ハッピーに気持ちを聞いたら、
「つながりの方を強く感じるからはなれた気がしない」って言ってて。
そうなんだよね。
ひとと離れている感覚って、「自分」と離れているとき。
本当は、私たちは「ひとつ」なんだもの。
離れようと思っても、離れるはずもない。
離れるというのは、幻想。
だけど、「肉体」という目に見えるもので、とらえている限り
「ひとつ」であること、つながりを感じられない。
それはわかっているんだけど。
ふと、ハッピーの意識は、そこにあるのに、なんで私はそこにいかないのかな?って思った。
前から気づいていたのは、
その「ひとつ」の意識になったら、ドラマは書けなくなるんじゃないかってこと。
出会ったり、別れたりの葛藤が、ドラマであり、その葛藤がなくなったら……
「毎日、よろこびだけ」なんて、ドラマ、誰も観たくないよねw
と思ったことがある。
ただ、最近は、そこを超えた場所で描くドラマってあるんじゃないかと思っていたの。
それでも、なお、抵抗があるのってなんだろう?
……と、自分に問うて、出た答え
人目や評価を気にしてる……!
まだ、そんなのがあったんだ!
例えば
人が大変な時でも、それに同調できなかったり(大丈夫って確信があるから)
問題が起きたとき、
普通人がするような行動をとらずにいたり
(自分が惹かれることを選び、心を整えることがいちばんの解決方法だと知ってるからだけど)
そんな、「普通」、
と離れることが怖いんだと気づいた。
で、ここで思うこと。
「普通」ってなんだ……?
それって、ただ、生きてる間に身に着けた「常識」だけだったりするわけで……。
つまり、私は、「自分の周波数」が高くなって
個を超えて
「全体意識」「ひとつ」の意識状態になったら
なぜか、「普通」ではなくなり、「バッシング」が起こると「前提」しているらしい
おもろい。
そこにあるのは「恐怖」だ。
だけど、わたし、
見知らぬ本のページをめくりたいのだ(ワクワク羅針盤の歌詞より)
そんなことをつらつら思う 葉山の午後。
今日も人生にブラボーと叫ぼう!
春の兆しが葉山にやって来たよ
ライン@始めたよ~~~~!
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