榛名神社とお舟山Ⅶ~周辺の神々?⑥~ | 力太郎のブログ

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近所の散策や自転車いじりとか…

富士見市勝瀬の榛名神社の南側のかつては湿田だった所は土地改良で乾田になったそうですが

水田地帯だった所も減反政策なのか?

牧草地のような休墾田になっています。

不自然にこんもりとある丘状の所が『お舟山』と伝承されている土地です。

明治期の宗教政策で明治40年4月に榛名神社境内へ神社合祀されるまでは

船山弁財天はこの地に鎮座していたそうです。後に神仏分離令で社名を改めて厳島神社になったそうですが

勝瀬村分(※神社合祀時点では既に鶴馬村と勝瀬村は合併し鶴瀬村になり、この宗教政策?で一村一社を掲げながらも鶴馬村分は字折戸の上鶴馬氷川神社(諏訪)にそれぞれ神社合祀されています)の村社だった榛名神社境内に移り今は「お船山」には弁財天や厳島社などは祀られて無いですがフェンスに覆われた一画の中にはお船山の由来や伝説などの解説・案内板があります。

富士見市勝瀬にある榛名神社とお船山伝説…

自分なりにドラクエ的な場所があるんだと思いつつ周辺散策し歴史やそれぞれの村々の神社や寺院など

郷土資料や路傍の石仏など周辺の地名や遺跡など調べてみると何かが見えてくるのでは?と思った次第ですが結末も無くだらだらと思い付きで素人の考察で書いています。

 

榛名神社とお船山Ⅱ~周辺の神々?①~

 

 

榛名神社とお船山Ⅲ~周辺の神々?②~

 

 

榛名神社とお船山Ⅴ~周辺の神々?④~

 

榛名神社とお船山Ⅵ~周辺の神々?⑤~

 
 
 

榛名神社近くの畑を守る案山子…

左奥の高台は貝塚山があった所で右奥はお舟山、桜堤の間を

砂川堀(砂川堀雨水幹線)が流れています。

 

 

 

かかしも!?

このお船山伝説に関係ありそうに思えて来たけど…

さすがにこれは関係無いですね。※山田うどんのロゴが案山子ってそういう意味か?w

 

勝瀬の榛名神社へ向かう時に

近道して

久しぶりに草刈りが済んだ川沿いから行こうとすると…

鴨に通せんぼされましたが

(´;ω;`)

ここは鴨場だったのかな?いや鴨猟師?が近くにいるはず…w

罠や人が隠れているのかキョロキョロするも堤防の上は誰もいません。

う~む、鴨か…これは何かを暗示するな…と思いました。

 

倭武の天皇…日本武尊なら矢で撃ち落として…

ここを『鴨野』と命名するのでしょうがこの話だと一羽の鴨w

 

 

常陸国風土記など、各々の風土記を読みなさいと言う意味かな?と思った次第です。

 

 

思わぬ鴨との遭遇も

新河岸川左岸の酸化鉄?鉄気が多い護岸の地質が気になった所ですが

この辺りは大正から昭和にかけて蛇行していた旧流路から新しく河川改修で直線的に流路を開削した所

 

新伊佐島橋から伊佐島橋が見える新河岸川下流右岸を見ると

この辺り右岸の富士見市勝瀬字伊佐島には

新河岸川舟運の時代は

※下流の伊佐島橋から上流右岸、新伊佐島橋を見る↑

勝瀬の伊佐島河岸があった辺りでしょうか?

左岸は富士見市東大久保です。

東大久保の旧村社・鎮守 阿蘇神社

猫がいて、人懐っこくて愛想の良い猫でした♪

富士見市の古い歴史資料ですが

古谷郷の古尾谷信秀の一門、中筑後守資信の産土神(氏神)と伝えられ…

とありますが神社の由緒看板には該当する記述や市史にも無いので話の真否含めて出自が気になります。

大久保村の村社・鎮守だった阿蘇神社も県内にあるのは珍しく気になりますが

かつては下南畑の方にも一社あって南畑(難波田)八幡神社へ合祀されたようです。

伊佐島という小字・小名は富士見市勝瀬やふじみ野市福岡にもまたがる小字名ですが

伊佐島遺跡もあるようです。

伊佐島河岸は梶家が代々、船問屋をされていたそうですが

梶氏は富士見市域に多い名前です。

※常陸風土記だと棹梶が折れたから梶無河という云々もありましたね。

地名で榛名神社にも近い富士見市勝瀬の小字で鍛冶海戸があります。

土豪や武士の城館があったのでは?と思わせる垣内(かいと)地名が

 

 

鍛冶とあるのが気になりますが在地領主に付随した鍛冶集団が居たのでは?と思わせますが

小字名一つだけで地名由来の全貌は見えませんね。

勝瀬の榛名神社に寄進された立派な石灯篭も長年、地域や市行政に尽力され貢献された梶氏でした。※夜になるとLEDでぼんやり灯されます

また加治氏も多く富士見市諏訪周辺、字折戸など総じて旧家だったりします。

鶴馬村・村社だった折戸(諏訪)の氷川神社、諏訪神社の宮司家だったり

※地元小学校の校長先生だった方もいます。

富士見市以前の首長をされた方もいますね。

諏訪神社の伝承とも関係深い折戸の草分け・草開きの家だったりします。

新河岸川って…昔の河川名は何て呼ぶのでしょうかね?

舟運の時代は荒川の流れに対して内川といったとありますが

今の荒川自体も1629年に熊谷の久下で元荒川筋の流れを締め切り和田・吉野川へ付け替えられ西遷し入間川だった所を新しい河道としたようですが1680年に川越市菅間の辺りで東へ直線化した流路になる前ですが

古尾谷小誌を読むと新河岸川を伊佐川とも言ったとあります。

新河岸川の上流域には九十川を経て伊佐沼があります。

 

乱流していた古い時代の入間川の湖沼跡でアカギヌマと呼ばれたそうですが

築堤造営で溜池のようにしたのが

古尾谷氏に招聘された伊佐氏が関わった様な記述がありますが

 

それ故に伊佐沼で伊佐川とも呼ばれた?

 

 

 

新河岸川の河川名は何だったのか?

伊佐という沼や小字名でありますが

気になるのが鉱区・鉱山名などで『伊佐』というのが偶然か?共通してある所です。

 

 

宇部伊佐鉱山 金山鉱区開発について PDF

 

 

 

 

古尾谷小誌の荒川右岸用排水改良区に伝わる古文書の記述では

豊城入彦命八世孫の射狭君(いさのきみ)に由来するとあります。

古谷神社の猫

現在、伊佐沼南東部の古墳頂部?に作られたとある

川越市古谷上字赤城にある古谷神社

古谷神社が明治頃の古谷村の祠や小社など神社合祀によって総称で古谷神社になったようですが赤城神社が本社です。

赤城神社は川越市の入間川右岸の地域に2,3社ありますが

豊城入彦命を祀り奉斎する氏族がいたのでしょうか?

 

富士見市勝瀬の『伊佐島』という小字は榛名神社の近くにある地名ですが何か?関係はないのか、気になっていました。

 

群馬の歴史と文化 監修・近藤義雄 みやま文庫

【群馬は車から】

古代の上野国は、毛野の地を二分して都へ近い地方は上毛野国、遠い地方を下毛野国と呼ばれていた。

この上毛国に君臨していたのは、崇神天皇の第一皇子豊城入彦命の子孫の上毛野公一族であった。

赤城南面を中心に次第に発展し、榛名山麓へもその一族車持氏が進出してきた。

弘仁五年(八一四)編纂の『新撰姓氏録』によると、車持公とは

豊城入彦命の八世の子孫射狭君の子孫で雄略天皇の御世に乗輿(じょうよ)《車》を供進したので車持姓を賜った」と記されている。

以来、車持氏を名乗り、榛名山東麓を支配していたのだろう。

榛名町大字十文字には車持神社がある。また『上野国神名帳』(総社本)の「群馬郡之内西郡之分」中に「正五位車持若御子明神」と

「従五位車持明神」に二社が記されている…

豊城入彦命八世孫の射狭君の末裔に車持君がいるようですが…

要はぐんまちゃんとも関係ある時代があったのでは?

伊佐という地名といい

榛名神社が富士見市勝瀬に鎮座する意味を考えると…

群馬方面から

奉斎する氏族などが来たのだろうと思うようになりました。

話を少し戻して…

 

新河岸川舟運の時代は伊佐島河岸の下流

すぐ隣に蛇木河岸がありました。

「蛇木」の由来は調べても分からず…

ただ新編武蔵風土記稿だと

上南畑村に蛇木明神社があったとあります。

新編武蔵風土記稿の上南畑村の小名に蛇木の記載は無いですが

富士見市域で上南畑は新河岸川左岸の地域だと思いましたが

勝瀬村、鶴馬村に接する新河岸川右岸にも飛び地のように村有地があったようです。

蛇木河岸は、かつては川一番の隆盛を極めた船問屋があったそうです…

川越舟運 斎藤貞夫氏著書の本に

蛇木河岸の事が書かれていますが

地元では蛇木を「ヒビキ」と発音すると言います。

 

明治の初め頃、前田家が営んでいた「清吉問屋」は川一番と折紙が付けられた船問屋だった。

しかし今は家屋敷は跡形もなく、雑草が生い茂っているだけである。

近くの宝蔵院には前田家の立派な墓石があり往時の羽振りの良さが伺える。

『南畑村の沿革史』によると先祖は同所の押田家より分家し、養子を伊勢の「前田家」より迎えてから

「前田」姓に改姓したという。五代目・清吉の時に回漕店を開業し「清吉問屋」と呼んだ。

つぎの清三郎の頃が全盛で、質屋や地主も兼ね、田畑五八町歩を所有、小作米が年間六〇〇俵余りも収納されていたという。

明治二十年頃、七代目富八になると道楽がたたって家運が傾き、子孫は絶え果てた。

三階建ての邸宅があり周囲を12棟の土蔵が囲んでいた…

 

蛇木河岸の清吉では…

この話を思い出しますね。

↑今の現状を見ると

にわかに信じ難いですが

今は小径に川沿いの自然堤防上に集落があるだけ?と思いましたが

明治期になり近郷で鉄道が開通するまでの舟運が盛んで交通の要所だった頃の蛇木河岸は

南畑橋近くに船止まりがあり船頭相手の小料理屋等が多く、○○銀座と呼ばれるほど栄えて賑やかだったようですね。

新河岸川右岸から上流方面、蛇木河岸があった辺り

明治期の迅速測図を見ても昔は交通の要所で大井町の川越街道(江戸往還・川越往還)から村道が東台~苗間~上沢~渡戸~貝塚山~山室の大沼近くを通って蛇木河岸ある所で少し南下し南畑橋(舟運の時代も太鼓状の木橋で船が通れるように架橋されていた)を渡って上南畑~下南畑を通って羽根倉道を進み荒川を渡河し与野や浦和方面に出ていた主要道のようです。

そんな小径というのか主要道…何度も通った事ありますがw

ごく普通の生活道路ですが…

このちょっと変則的な丁字路の理由が分かったのですが

ここが蛇木河岸への河岸道でしたw

※通勤の抜け道で、ここを曲がってよく使っていた通りです。

振り返って、最も栄えた蛇木の中心地は?

小祠のような神社や石造物がある。

蛇木の集会所

蛇木明神社はどこか不明ですが…?

公民館とか集会所って、その地区の中心地だったり村役場跡、廃社寺になった所が多いなと思います。

蛇木の由来とか気になりますね?

蛇木から山室の ららぽーと富士見

ららぽーとが開業した頃にバイパス沿いで狸を見た事があります。

昔は大沼周辺が大井町(大井・苗間)の新田開発で出耕作地だったようですが

 

今は無いですが大きな沼があったそうです。

大沼と呼ばれた沼にも蛇にまつわる昔話があります。

 

丸池から大沼へ大蛇が移動した話ですが…

丸池は江川(富士見江川)上流の鶴馬村分で貴重な水源だったようです。

※鶴馬村絵図

※絵図左上の丸池

藤久保村(三芳町藤久保)との境界付近にある丸池でしょうか?

 

三芳町藤久保の藤久保村の由来になった所らしいですが窪地に藤があったそうです。

藤久保村の起こりより土地の歴史が古いそうですが

訳あってでしょうが蛇にとっては?なかなかの大移動ですw

 

図川と呼ばれる川が山室の方から水路のように流れて砂川堀に落ちていますが

かつては灌漑用にも利用した沼も耕地改良で近年まで水田地帯だったのが

大型商業施設が完成し周辺の様子や交通の流れも一変しましたね。

大沼も無くなって蛇はどこへ行ったのでしょうかね?

富士見市の昔話で

鎌で蛇を切るな!という話が言い伝わり、家に祟り災いあると言いますが

榛名神社に御手洗池があった頃は蛇が棲むとあり、殺してはいけないとか

同様にお船山にも蛇に関わる話がありますが

弁財天の眷属が蛇だからでしょうか?

勝瀬字谷田にあるお船山

 

少し前まで真っ直ぐな小径が河岸道で川越街道の大井町・大井宿まで続いていました。

蛇木の丁字路を国道254号線BPへ向かうと

ららぽーと富士見が出来てから

 

古くからの往来から広い道で交差点が新たに出来ています。

かつての大井町~蛇木河岸を結んだ河岸道が、R254BP以前の富士見有料道路の時に一方通行で通り抜けできなくなっていましたが迂回し今は通れるように改良されています。

蛇木河岸跡から伊佐島方面へ少し戻ると…

砂川堀が新河岸川に合流する所、改修工事で堤防が一部切り取られて樋門など新しくしているのでしょうか?

去年撮った画像なので今は完成していると思いますが

 

洪水浸水被害を防ぐため護岸の改修など周辺、様々な工事をしていますね。

 

蛇島調節池

新河岸川へ合流する手前、砂川堀の左右岸にあり水量調節で多い時は流れ込むようになっていますね。

蛇島調節池の「蛇島」が地名なのか気になる所ですが…

木+伊佐にまたがる調節池だからかな?と思っています。

 

R254号線BPがあって蛇島調整池の天端部分の周回路かな?と

向こう側へ行けないのかな?と思うのですが

砂川堀沿いに水路とアンダーパスになって車でも通れるようになっています。

 

けっこう複雑な造りだけど水路なんかは使用してない感じですが

元々道や橋が架かっていたので

代替路でちゃんと作ったようです。

※今昔onマップで新旧比較するとバイパスが通っている所の

謎河川跡や砂川堀や他の用水の流路の変遷?や

勝瀬川!?(※福岡江川じゃないのかな?と思う)が気になりますね…

市民プールや清掃センターを過ぎると勝瀬中学校前の通りで真っ直ぐ行くと

榛名神社東側です。

ぐるっと南側から廻って

 

勝瀬の榛名神社

富士見市に榛名神社ってなんで鎮座しているのか?不思議でしたが

勝瀬に【伊佐島】という小字があり、関係性が何かあるのでは?と気になっていましたが

豊城入彦命八世孫の射狭君の末裔に車持君を介すと…

榛名神社がここにあるのは納得できるのですが奉斎する一族が船で来たのでしょうか?w

お船山は鉄の舟が沈んでいるのか?

舟は古代製鉄の鉄づくりをしていたタタラ炉の防湿・断熱の重要な地下構造があった場所なのか?

榛名神社とお舟山~周辺の神々?~

①~⑥に掛けて一年以上も進捗ないまま続けて色々と妄想膨らむのですが…

 

砂川堀流域でここから少し上流の

大井東台の製鉄鍛冶遺跡は奈良~平安時代に掛けての県内で有数の規模の製鉄遺跡のようです。

少し下流の渡戸の関口不動堂があるカナクソ(※鉄滓)山には鉄作りしたあとできる鉄滓など多く出土する地域や貝塚の貝塚山にあった貝塚稲荷社は折戸の上鶴馬氷川神社(諏訪)に神社合祀されていますが御神木があった木の根付近から古墳?で埋葬された人の骨や直刀など発掘されたとあります。

伝説通り、船に乗って五穀豊穣を司る神様たちがこの地に降りた地なのかもしれないし、鉄作りの技能を持った人たちかもしれませんが…

個人的には鉄の舟で…砂鉄や鉄製品を積んだ船が沈んだけど一行は難の逃れたから信仰の対象になったのでは?とか

共通した地名や各々の神社や寺院など祀られている対象など深く調べてみると分かる事があるのでしょうね。

なにかが…お船山にはあったのだろうと思いますが、続きは2022年ですね♪

こんな支離滅裂な意味不明な分かり難いブログをお読み頂きありがとうございます。

今日もご覧頂きありがとうございます。

砂川堀のお船山付近…鉄気を感じる護岸に珍しく単独のコサギですかね? 白鷺伝説かw