海外と日本、様々な国の人々と生活して出会って生きてきたからこそ実感するものがあるんだろうな。
わたしは日本の愛知県で生まれ育って、結婚してからも愛知県から出ていない人間。
引きこもり系で世間知らずの
「ザ・井の中の蛙」
なので、本筋の国家や国歌云々より、その立場に眩しさを感じてしまった。
帰国子女、バイリンガル(死語?)って憧れる。
イメージ:藤堂静「花より男子」
たぶん、読解力の無いひと、わざと理解しようとしない人、凝り固まった頭の人は、ここっとさんの記事を読んで反射的に「残念な人?!君が代が過去にどんな扱われ方をしたのか、歴史を知らないのか?」「戦争責任」「天皇制云々…」ってな感じの反応を見せると思う。
文中に国歌に起立しない人の「理由」は知ってるって書いてあるのにね。
もちろん、ここっとさんはわかってらっしゃるんだと思う。
「君が代」という歌に、歴史や戦争や辛い思いや悲しい記憶がまとわりついていることなんて承知した上で、ーそれでも。
国旗や国歌は国の象徴。
だからこそ、敬意を払う。
目に見えない「国」へ。
わたしも、国旗国歌に起立しない人は「残念な人」だと思う。
それは「君が代」に限らず。どの国の国歌に対しても国旗に対しても、好悪の感情とは別の次元で、敬意を表するのは当然の礼儀だと思うから。
ましてや自国の象徴ならば尚更。
公共のサービスを享受し法や秩序に守られて、国旗国歌を罵倒するほどの自由すら与えられている。
日本という国が寛大だから平気で着席していられることに気づいていない。
そこが「残念」だというのだ。
そんなに不満なら、そんなに嫌なら、なぜその庇護のもとに甘んじているのか。
主義主張があって「君が代」を否定するなら、「君が代」とは縁のない国で過ごしたらいいではないか。
「君が代」が流れる卒業式に出席できるほどたっぷりと日本に住む旨味を味わっておいて、そこだけ主張するのは筋が通らない。
日本の歴史は太平洋戦争の数年のみではない。
その前にもあったし、その後も続いている。
なにより、今。
現時点。
役所の人が戸籍を管理し、自衛隊や警察が治安を守り、病気や怪我になったら使える保険制度があり、大小の企業があり、誰もが読み書きを学べる教育があり、発言の自由がある日本。
蛇口をひねれば水が流れ、夜の闇を忘れるほどの光がまたたき、空は青く、花が咲き、世界各地の美酒美食が溢れ、いつでも古今東西の本を手に取ることができる。
その幸福に感謝しないのは無礼じゃない?
なんだか、お父ちゃんの建てた家でお母ちゃんの手作りご飯を朝昼晩食べて洗濯もしてもらって買ってもらったゲームしながら「産んでくれなんて頼んでねーし!」って文句言う子どもみたいなんだよね。
追記:
家庭の事情(親が信じてる宗教など)や特殊な思想の大人に起立するな、歌うな、と育てられた子どもがいることを思い出した。
君が代の歌詞の上に別の歌のプリントを貼ってしまう学校もあるんだとか。
君が代、とっても短い歌なのにわからない人もいるんだって。
…怖い。