直観について | 哲子の部屋

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哲学系メモ帳と哲学に向かないヒトビトの観察日記。


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ある事柄について、見える者と見えない者とがいる。これは理解できる者と理解できない者がいるという事と同じ話だが、誤解や間違い勘違い、錯覚など別途考慮すべき点が多々ある。それらについては除けておくとして、理解できる/できないという差が見える/見えないという言葉を形而上的な意味を持つものへと変化させた。

 

というのは以前にも 哲学と哲学者と②で触れた。

 

無論、それが形而上の意味を持つのは、それが見えない者に対してであり、元から見えているものにとってはちっとも形而上ではありえない。肉だけ魂だけというのは正常ではない状態であって、本来それらは一体となってそこに在る。ただ見えない者がいる事によって、中身の不一致が生じ、彷徨い始める事になってしまう訳だ。

 

その対象が、すっかり見えている状態になっていれば、そのありのままを見ることができる。この状態を直観という。そんな事ができるのか?という問いに対する答えは今挙げた通りだが、他にもいくつか答え方がある。

 

見えてる人間には見えているが、見えていない人間には見えていない。つまり、人間の知性というものは一律に等しい訳ではなく、固体差があるという事だ。自分に、あるいは自分と愉快な仲間達に理解できないからと言って、それは理解しえないものかと言えば、そんな事は全然なく、見える者たちにはしっかりと見えている。自分の視界を世界のすべてとする事は世界の矮小化に他ならず、その見えてるものが錯覚であるかもしれないという事は再び脇に置いておいて、見えない者に見えないモノを見せるという事は、単純に考えて無理という結論になるだろう。(→ 円環の難題 参照。)

 

また、人間には何やら見えてるのは確かなようだが、人間の感覚器は果たしてそれら対象を正しく捉えているのだろうか?人間は対象の存在、自分の存在だけでなく、自らの感覚(器)の正しさすら疑った。その結果が、目の仕組み(光学やレンズの研究)や外界と内面を媒介するメディアの研究などに繋がっている。見えたままを、そのまま正しいとして受け入れる程、学問の厳密さは暢気ではなく、確かなものを求めるために、哲学は懐疑主義を経ねばならなかった。

 

三つ目は、そんな事ができるのか?という、その正しさについてであるが、それはこちらの

fromSomewhere の哲学の原理①大凡の真理における 完全なる真理 の話と、今書き途中の記事、トートロジーの話に続けようと思う。

 


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・・・続くはずが何故か前のページに。→ 一番単純なトートロジー

 

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