たえる | 孤高の狼といふ者の旅日記

孤高の狼といふ者の旅日記

自身3度目のブログ。昔気質な性格故に、雲の流れの様に身を任せる事が中々できないのがもどかしくも、そんな己が心身の鍛錬と共に、思う事、起こった事を淡々と綴る。全てを捨てた漢の流離いの先にある心の美醜とは!?

暑い…、いやキツいが正解か!?

今年は、例年にない酷暑のように感じられる。
【酷暑の畑にも付いてくるレイ🐕。拙者が汗を流している間も、涼をとっている姿は流石!】


女将は、私がこの地に滞在してからも、基本は我が身の疲れに任せて、朝はゆっくり寝かせてくださる。

お陰で、春眠の頃は暁を覚えずなんて事はしばしばだった。

だが、今や窓から差し込む日光の強烈さで、疲れも半ばの状態で起きる事に。

私自身は、サラリーマンや普通の方々とは違い、日々を何かに追われる身ではない。

それだけを聞けば、なんて怠けた者や!などとお叱りを受けそうなものだが、そこは風来の身である事を公私ともどもに伝えている(新聞でも…ね)以上、雑音はシャットダウンである。

昔の戦国時代には「陣借者」というのがあったという。

これは、現代でいう傭兵にも似ているが、違うのは報酬が目当てではない事か!?

では何故、命を賭けてまでして、戦場に出たのか?

残念ながら、その当時に生きていない以上、妄想するだけでしかないのだが、無茶振りで現代版の何かに例えるならば、ボランティアか!?

平和な今だと「安全」を前提に、出来る範囲で慈善活動をというスタンスになるが、その中で、仮に危険を承知でも「為すべきを為す」といった覚悟も持ち合わせている者が、どれ程いようか!?

別に、他の者にその有無を問いたいのではない。

なぜなら、それはこの世を流離うが如き、風来の身である私自身への問いだからだ。

色んな視点で自分という存在が、何を可とし、どこまでが自分の許容範囲なのか、そしてその先に感ずる精神とはどの様なものなのかを模索する事…

そんな試みが、私の一日の中では繰り広げられる。

今だと、正にこの暑さへの耐性が、それであろう。

連日の酷暑で、賢い人なら避ける日中に敢えて、田畑に身を置き作業をする。

それと同時に、自分の体内における変化を熱中症の症状と照らし合わせつつ、対応出来るかどうかを試すのが、今の私の耐える事である。

当然ながら、その作業効率が下がる事は、自らが担っている責任に対して許されることではない。

もっとも、それ以上に許さざれるは、自分という者の能力をも見極められず、病院のお世話になる事ではあるが…。

故に、耐える事とは絶える事なき、己が身との対峙とも言える。

とどめなく、頬を伝う汗…

それを拭い、冷えた湧き水で喉を潤わせ…

同じく冷えた湧き水を含ませたタオルで我が身を冷やす。

そして、必ず、その後は天を仰ぎ見る。

それの繰り返しで、やっとの事、夕陽を拝める頃合いになった時、漸く私自身への語り合いは、束の間の休みを得る訳だ。

だから、この季節の夕陽を眺む時の自分は、他の季節のそれよりも遥かに感慨深さがある気がする。

よう、今日も生き抜いたな…と。

そして、その時には必ず、私の側にはレイ🐕(♀)がいるのだ。

この仔との散歩が、私の一日を締める活動の一つでもあるから。(他にはウサギ🐇、7/26からはニワトリ🐓の世話も)

レイ🐕の様子を見ていれば、よく分かるが、動物は決して無理をしない。

たった一度の経験を、必ず次の機会に活かすという賢さがあるのだ。

つまり、安全を最優先にする。

それに比べると、私の至らなさは彼女達にも遥かに劣る。

「犬畜生にも劣る」なんて言葉もあるが、正に今の私はそうかも知れない。

もとい「失敗の先生」となろうとさえ思っている位だからだ。

だが、それと同時に「生きる」事の素晴らしさは、心身を以って語ることは出来る。

それが、我が天への語りだから…

※女将達が朝茶事を。何と朝の3時に起きて準備されたとか!?その流れで、参加者各々が生けた花々。

*7/26からは、遂にニワトリもファミリーに。このツツイてる光景を眺めるのも案外、ハマるんだよね。


*もう今は、とにかく草刈りのオンパレード。やるかやらぬかの違いは、一目瞭然。