私は結婚するまでは

ある企業に勤めていて

昔でいうOLでした。

今では考えられないかも

しれませんが

40年前の会社では

寿退社なんて言葉があって

結婚したら女性は辞めるのが

当たり前みたいな雰囲気でした。

企業での差はあるものの

私が就職をした会社の女性は

結婚したら全員退社をしていました。

結婚をしない女性も

ある程度の年齢になれば

退社をしないといけない雰囲気になり

理由を作り辞めていくという

理不尽な世の中の典型的な

会社だったと思います。

その儀式みたいなのに便乗して

私も寿退社をした一人でした。


私は結婚に対して

いくつかの条件を持っていた。

若かった未熟な考えだと

今は思うがあの頃の私は私なりに

妥協はしたくないと真剣に

結婚を捉えていたのだ。


私は専業主婦を希望していた。

両親が共働きをしていて

学校から帰って母が居ない事が

私は寂しくてつまらなかった経験から

結婚をしたら家にいる生活を望んでいた。

専業主婦でいられるには

経済的に安定している相手でなくては

いけないと一つの条件があった。

まだ話せば色々とあるんだが

今回はその一点から書きたい。


母の病気からの闘病生活が始まり

私の結婚してからの

シナリオは大きく変わっていった。

子ども好きではなかった私は

結婚後は再就職をして

暫く二人で働いて貯蓄をしたかった。

社宅に住んでいたし5年間は

共働きをして貯金をして20代後半で

子どもを妊娠したいと思っていたのだ。

しかし現実は甘くはなかった。

結婚して半年もたたない時に

母に癌がわかり生活は一変した。

母の余命に間に合わせるかのように

母をおばあちゃんにしてあげたいと

長男を出産していくという

当初自分が描いていた結婚生活とは

全く違う現実が始まっていった。


子ども好きではなかった私が

長男と出会った瞬間から

全てを撤回するような気持ちになり

こんな愛おしいものがあったのか?と

我が子への愛でいっぱいになった。

私の人生観が大きく変わった

思わぬ展開が始まった出会いだった。

貯蓄は出来ないままではあったが

私は我が子のそばにいたかった。

経済的には豊かではないにしても

人並みの生活が出来れば

私は子どもの成長を一番そばで

ずっと見守りたいと思い

再就職の考えは空に消えていった。


3人の子育て中は色々なパートをした。

定職に就きたいとは思わなかった。

子どもの体調や学校行事等

第一優先にと思っていた私は

お休みを取りやすいパートを選び

家計の足しになればと思う働き方を

選択していった。

早朝のパン屋さんや

主人が夜帰宅してからの3時間を

コンビニで働いてみたり

紫蘇を摘むパートをしたり…

子育てに支障がない時間帯で

旅行費を貯める目的だったり

子どもの用品を買う目的だったり

少しの余裕を持ちたくて

パートという形で働いた。


しかし離婚という私のシナリオには

なかった出来事が待っていた。

主人が転職する事さえも

全く予期せぬ事で

色々な事が次々と起こり

渦の中に入っていった私がいた。

その頃の記憶が曖昧になる程

記憶から消したい程の

苦しみや怒りや悲しみの中にいた。

離婚してからはフルで働かないと

生活が出来ない状態へとなり

朝から夕方まで働いた。

長男は大学生で福岡にいた。

長女は高校生。

次男は小学4年生だった。


長男も福岡でアルバイトを始め

生活費の仕送り負担を減らしてくれた。

長女もお小遣いはアルバイトをして

まかなうからと負担を減らしてくれた。

まだ小学生の次男にだけは

不自由な思いをさせたくないと

兄姉と私は必死に生きていたと思う。

何を長女と次男に食べさせていたか

覚えていないくらい

仕事から帰っての夕食だった。

しかし長女と次男の笑顔で

溢れていた食卓だった風景は

しっかりと覚えている。

学校の話しや野球の話し。

ファッションやメークの話し。

お友だちの話しや色々と話してくれた。

私の活力だった。

私の原動力だった。

公正証書まで交わした離婚だったが

元主人は行方をくらませ

慰謝料も養育費も支払わない状況に

絶望感を味わいながら生きていた。


次男が中学1年生の出来事。

雨降りで部活が早く終わり

帰宅をしていた次男。

長女は芸能界でのスタートをきっていた。

私も仕事が終わり買い物を済ませ帰宅。

次男はゲームをしていた。

私は外に干している洗濯物が

雨で濡れていたのを慌てて部屋へ

取り込んでいる最中に

涙が溢れてきた。

身体が疲れ果てていた。

どうしてこんな暮らしになったのか

こんなシナリオは私にはないはずなのに。

朝の弁当作りから一日が始まり…

クタクタになって帰ったら

洗濯物はビチョビチョに…

それに気付きもしない次男は

ゲームを楽しんでいる。

その現実に涙が溢れた。

私は離婚をしてからはじめて次男を叱った。


「ママは遊んで帰って来たんじゃない

 一生懸命に働いて、生活するために

 あなたたちを育てるために真剣なの。

 今日、部活が早く終わって帰ってるんなら

 自分たちの洗濯物を部屋に移すぐらい

 わからないの?毎朝ママが干してるの

 知っているよね?どうしてゲームをする

 時間があるのなら自分の出来る事をしようと

 思えないの?お風呂の掃除だってママだけの

 仕事じゃないはずだよ、あなたも入るお風呂

 なんだから、あなたが掃除しても良いと

 思うし、助け合わないとママも全部出来ない!

 部活で汚れて帰って来るあなたの事を思って

 毎日お風呂を入れてるんだよ、逆にあなたが

 ママを思ってお風呂を入れても良いんじゃないの?

 2人で助け合わないと生活出来ない

 今はそんな生活をしてるんだよ。

 ママを助けてよ…」


泣きながらそんな話しをしたと思う。

しなくてもよい思いをさせているという

罪悪感と自分の力のなさを痛感しながらも

次男に私の気持ちを知ってもらいたかった。

あの頃も3人の我が子へ対しての愛情だけが

私を支えてくれている状態だったと思う。


それからの次男は変わった。

危機的状況を彼なりに理解したのか

自分の出来る事を思いやりを持って

出来るようになっていった。

たまにはお風呂場をキャンドルで

綺麗に照らしてくれたりした。

私が喜ぶ姿をみたい

私の笑顔をみたい

私を救ってあげたい。

そんな次男へと成長していった。


ドン底だった時もありました。

情けない自分も味わいました。

ただ一つだけ変わらなかった事は

子どもを育て上げるんだという気持ちです。

私よりより良い人に育てると

決めた事には忠実に生きてきた。

私にはそれだけだったんです。

何かを成し遂げたんだといえる人生。

私は子どもたちとの成長なのです。

3人の子どもそのものなんです。

それはまだ続いている事でもあります。

次男とのエピソードを思い出すと

私のあの涙はきっと

彼を一人の人として感じて

流れた涙だったんだと思います。

我が子だけの感情ではなく

一人の人として聞いてほしかった

言いたかったんだと思います。


今となればそんな時もあったねと

笑いながら話しますが

あの頃は涙が枯れる程泣いていました。

しかし、今は家族で笑えます。

我が家の底力が発揮され

子宝に恵まれた私は笑えます。

未来が先が見えなくなる時って

長く生きていたらきっとあると思います。

いっそのこと死んだ方が楽だと

思う出来事もあるかもしれません。

でもね、、、

生きていこう。

嵐はいつか収まるから

渦の中から抜け出すチャンスも来るから

大切な命を大切な人を

大切にしていきましょう。

生きてるだけで丸儲け精神で

泣いて笑って生きていきましょう。

自分が選択した結果が今です。

その今をあなたはどう感じますか?

感じ方次第では

これからの今をどうしていきたいか?

自分とじっくり相談しながら

行動や考え方を変えていくのも

一つの手段だと私は思っています。


正解のない旅です。

自分の心の正解になる生き方を

私は生きていきたいなぁと感じています。

みなさんも気分良く過ごせる毎日を

みなさん自身で演出してくださいね。

私もそんな自分でありたいです。

一緒に、精一杯生きましょう!


あなたにとって

素敵な一日になりますように😊