こんにちは門人Uです。

突然ですが、日々の生活の中で楽器を演奏したり、音楽に触れたりすることは好きですか?

私はこの夏休みに入ってから、好きなアニメや映画のオープニング曲などをピアノで弾くようになりました。

これまでピアノを習った経験もなく、楽器に触れたこともほとんどなかったのですが、練習を重ねるうちに「ミリ単位」で少しずつ上達している実感があり、楽しく向き合っています。

 

そんなピアノの練習を続ける中で、ふと、日々の居合の稽古に通じる共通点を感じることがありました。

今回は、その2つの大きな気づきについて綴ってみたいと思います。

一つ目の共通点:「力みすぎない」こと

居合の稽古において、体に余計な力が入りすぎると、刃筋がブレてしまったり、次の動作へ素早く滑らかに転換することの妨げになってしまいます。

 

これはピアノでも全く同じでした。 

指先に変に力が入っていると、演奏中にスムーズな指の移動ができず、意図しない鍵盤を叩いてしまう……なんてことが起こります。

しかし、肩や腕の力を抜き、呼吸を整えて心身ともにリラックスさせることで、驚くほど演奏がしやすくなります。

指や肩がガチガチに固まっている状態では、自由に動かないばかりか、音楽の拍子を合わせることも難しくなってしまうのです。

「脱力」の重要性は、武道だけでなく音楽の世界でも本質的なものなのだと実感しています。

二つ目の共通点:意識の配分(「7:3」のバランス)

ピアノには、主にメインとなる「主旋律」と、それを支える「副旋律」が存在します。

多くの場合、右手で主旋律を、左手で副旋律を奏でます。

 

曲の主役はあくまでメインのメロディラインであるため、「副旋律を奏でる左手は、そこまで意識しなくてもよいのでは?」と思われるかもしれません。

しかし、実はこの副旋律こそが、主旋律を引き立てる極めて重要な役割を担っており、なくてはならない存在です。

その上、副旋律は主旋律に比べて複雑で難しい動きを求められることも少なくありません。

 

こうした場面で活きてくるのが、日頃の稽古で師範から教えられている「7:3の比率」という意識の持ち方です。

 

意識しにくい副旋律(左手)にある程度の比率(注意)を向け、残りを主旋律へ――。

この絶妙なバランス感覚は、そのままピアノの演奏にも通じていました。

自分の意識が自然と向きにくいところにあえて意識を向けてみるというアプローチは、居合の稽古場に限らず、あらゆる物事において大切な視点なのだと感じます。

おわりに

こうした居合との意外な関連性は、ふとした趣味の範疇にも潜んでいるものです。

日々の何気ない体験から稽古への新たな気づきを得ることができ、それがさらに居合という道の奥深さや魅力を知るきっかけにつながっていく。

その奥深さに触れるたび、もっと知りたいという探究心が湧いてきます。

この道の奥深さをより一層知り、人としても武道家としても成長していけるよう、これからも日々精進してまいります。

居合を続けていると、ふと、

「いつの間にか、出来るようになっていた」

そんな瞬間に出会うことがあります。

最初は、誰しもが試行錯誤の連続です。

  • ちょっと身体の使い方を工夫してみる

  • 新しい視点を試してみる

  • 上手くいかなければ、立ち止まってまた考える

当の本人は目の前のことに必死で気づきませんが、後から振り返ってみると、過去に稽古の中で聞いた言葉や教えが、大きなきっかけになっていたことに気づくこともあります。

しかし、それは「その言葉を聞いただけで、すぐに出来た」というわけではありません。

自分で考え、試して、失敗して。 その地道な積み重ねのすべてが、いつしか身体に染みついていくのです。

「出来た」の先にある、さらなる深み

一つの技や所作が出来るようになると、そこで終わりではありません。

今度は、その先にある新しい課題や、見えていなかった微細なズレに気づかされます。

「出来た」で終わらない。 出来たからこそ、次の高い壁と深みが見えてくる。

その終わりのない探求の繰り返しこそが、居合の面白さであり、奥深さなのだと日々実感します。

だからこそ、焦る必要はありません。

今日できなかったことも、試行錯誤して流した汗も、すべては明日の稽古へと確実につながっています。

錬誠会では、年齢や経験を問わず、一人ひとりが自身のペースと向き合いながら、真摯に刀を振るう稽古を重ねています。

今日もお互いに、一刀一刀を大切に稽古に励みましょう。

近年のアニメやメディアの影響もあり、ここ数年、ありがたいことに毎月2〜3名ほどの方が、錬誠会の見学や入門に足を運んでくださっています。

武術の裾野が広がり、多くの方に興味を持っていただけることは、指導者として非常に嬉しい限りです。

 

しかし、初めて稽古を体験される方々の様子を拝見していると、少し気にかかることがあります。

 それは、武術の世界をどこか「手軽で、すぐに習得できるもの」とイメージされている方が意外と多い、ということです。

 

職人の世界に「下積み」の年月があるように、武術の道もまた、一足飛びには進めません。

 いざ刀を手にし、身体を動かしてみると、「なぜか足が動かない」「頭ではわかっているのに技が結実しない」と、その難しさに驚かれるかもしれません。

 

ですが、どうか安心してください。最初からできなくて、当たり前なのです。

 

武術の稽古とは、「できない自分」を嘆く時間ではありません。 

「なぜできないのか」を問い、それを「できるようにするための鍛錬」を積み重ねるプロセスそのものです。

 

泥臭い稽古の果てに、ふと身体が繋がり、ようやく「できた!」と確信する瞬間がある。 

その喜びは、最初から簡単にできることとは比べ物にならないほど深く、尊いものです。

 

一朝一夕では身につかないからこそ、自分の身体と深く向き合い、生涯をかけて探求する価値がここにはあります。

 

錬誠会は、単に技の形をなぞる場ではありません。 

この「地道な鍛錬のプロセス」を楽しみ、心身ともに本物の力を養い、自己を磨き続ける仲間が集う場所でありたいと願っています。

 

「簡単にできないからこそ、面白い。」

 

そんな武術の深淵に触れ、本気で自分を変えてみたいと思っているあなたを、私たちは心から歓迎します。

 

未経験の方も、武術の真髄を学びたい方も、まずは一度、私たちの道場へお越しください。

共に汗を流せる日を楽しみにしています。

[錬誠会 公式サイト・稽古案内はこちら] https://renseikaiiai.com

見学・体験は随時受付中です。 伝統の重みと、それを乗り越える喜びを、ぜひその肌で感じてみてください。

錬誠会の稽古において、私たちが何を目指し、どのような軸を持って日々の鍛錬に向き合っているのか。

今回は「古武道と現代武道における稽古の目的の違い」についてお話しします。

 

現代において「武道」というと、柔道、剣道、空手などに代表される「現代武道(競技武道)」を思い浮かべる方が多いでしょう。これらはスポーツとしての側面を持ち、ルールの中で勝敗を競い合い、心身を鍛え上げる素晴らしい文化です。

 

一方で、私たちが継承する「古武道」は、その成り立ちや目的において決定的な違いを持っています。

1. 「勝敗」から「生死」へ:ルールの有無

  • 現代武道(競技): 安全なルールの下、制限時間内でポイントや勝敗を競います。相手をいかに制するか、競技としての勝利が大きなモチベーションとなります。

  • 古武道(実戦): 古武道には本来、「ルール」や「試合」という概念はありません。 想定するのは常に「真剣勝負」であり、一瞬の油断が命取りとなる状況です。したがって、勝敗ではなく「確実に生き残るための合理的な身体操作と理合」を追求します。

2. 「技術の獲得」から「自己の完成・身体の根本改造」へ

現代武道が「技をかけ合う」「相手に勝つ」ことに主眼を置きやすいのに対し、古武道の本質は「自分自身の身体の矛盾を取り除くこと」にあります。

  • 力を抜いて重力を利用する身体操作(抜重)

  • 武器を身体の一部同然に扱うための中心軸の確立

  • 精神的動揺を抑え、あらゆる状況下で平穏を保つ心身の統合

古武道における稽古は、相手を倒すための手段であると同時に、自分自身の内面と身体を極限まで磨き上げる修行(修養)そのものです。

3. 「記録と更新」から「継承と深化」へ

競技スポーツは時代とともに進化し、記録や新しい戦術が生まれます。

しかし古武道は、先人たちが命がけで見出し、伝えてきた「形(型)」の中にこそ真理があると考えます。

 

その形をただの型骸(形骸化した動作)ではなく、「生きた技」として現代に蘇らせ、深めること

そして、その理合を次世代へと正しく手渡していくことこそが、古武道を学ぶ者の使命です。

錬誠会が目指すもの

私たち錬誠会が日々取り組んでいる居合術、剣術、そして総合的な武術の稽古は、単に「強くなるため」だけのものではありません。

  • 雑念を払い、一刀に全神経を集中させること

  • 重力と一体化し、無理のない合理的な身体の使い方を体に刻むこと

  • 古の武人が直面した厳かな理合を、現代の稽古場において追体験すること

こうした日々の鍛錬の積み重ねこそが、現代社会を生き抜くための「不動の心」と「しなやかな身体」を育ててくれます。

目先の勝敗にとらわれず、自身の内面と深く向き合う。 

それこそが、古武道が持つ最大の魅力であり、私たちが守り伝えていきたい稽古の目的です。

 

【錬誠会では随時見学・体験を受け付けております】 

古武道の理合に興味のある方、本物の身体操作を学びたい方は、ぜひお気軽にお問い合わせください。

皆様、こんにちは。 名古屋を拠点に古流武術の稽古行っております、錬誠会でございます。

 

本日は、幕末の思想家であり教育者である吉田松陰が、若き日(数え年25歳のとき)に定めた「士規七則(しきしそく)」についてお話ししたいと思います。

 

「士規七則」は、武士(士)たる者がいかに学び、いかに生きるべきかを示した七つの条文です。

単なる武芸の心構えにとどまらず、一人の人間として、そして日本人としての「心の背骨」を築くための不朽の教えが詰まっています。

 

錬誠会が日頃から掲げる「実戦的な居合」「心身の統一」の根底にも、こうした精神的な修養が深く通底しています。

吉田松陰「士規七則」の七か条

一、立志(りっし)

人は志を立てなければならない。志がなければ、何事をなすにも定まりがなく、ただ流されてしまう。

二、択友(たくゆう)

友を選ぶことは極めて重要である。良き友と交わることで、自らの徳を高めることができる。

三、読書(どくしょ)

古今の聖賢の書を読み、その教えを自らの血肉としなければならない。

四、講学(こうがく)

学んだことを一人で抱えず、互いに議論し、教え合うことで理解を深める。

五、主敬(しゅけい)

常に誠実な心を持ち、何事に対しても真剣かつ真摯に向き合う。

六、交友(こうゆう)

友人に対しては信義を重んじ、互いに高め合う関係を築く。

七、気節(きせつ)

困難や逆境に直面しても、自らの信念を曲げず、気高く節度を守り抜く。

武道と「士規七則」

私たちが日々、真剣(本物の刀)を扱い、身体の運用や古流の技法をどれほど深く追求したとしても、そこに「志」や「誠実さ(主敬)」がなければ、それは単なる技術のひけらかしに過ぎません。

  • なぜ稽古をするのか(立志)

  • どのような仲間と共に高め合うのか(択友・交友)

  • 日々の鍛錬にいかに真剣に向き合うのか(主敬・気節)

これらはすべて、現代を生きる私たちが武道を通じて磨き上げるべき「人間力」そのものです。

錬誠会では、技の修練はもちろんのこと、こうした古人の残した精神を日々の稽古場に映し出し、心身ともに軸の通った人間形成を目指しています。

 

刀を抜くその一瞬だけでなく、日常生活の一挙手一投足に「士」の気風を宿すこと――それこそが、私たちが守り、伝えていくべき古流武術の真髄であると考えております。

 

皆様も今一度、ご自身の「志」や日々の姿勢について、そっと振り返ってみてはいかがでしょうか?

 

【錬誠会では随時、見学・体験を受け付けております】

当会では、関口流抜刀術をはじめとした総合的な武術の稽古を行っています。

武道の精神に触れたい方、本物の技を学びたい方は、どうぞお気軽にお問い合わせください。