本日の読書感想文

 

 

うみねこのなく頃に 〜最後で最初の贈りもの〜

竜騎士07


 

 

本編に入る前に、ツインレイの彼女(=片割れ)のやっているブログをご紹介させてください↓↓↓

 

 

 

 

なれそめ 

 

ぼくがまだモラトリアムの季節にあった頃のことです。『うみねこのなく頃に』というゲームがリリースされたのは。

 

 

作者の竜騎士07さんのことを知ったのは、前作の『ひぐらしのなく頃に』のアニメからでした。それを見たぼくは、グロテスクとサスペンス、そして萌えと燃えとを備えた同作に夢中になったのを覚えています。

 

 

正直、『うみねこのなく頃に』のアニメはちんぷんかんぶんだったのですが、何をきっかけにしてだったか、ぼくは原作のゲームを遊ぶことにしたのです。ゲームプレイはテキストを読んでくノベルゲーム。これが、おもしろかった。

 

 

一見して「魔女」や「魔法」が登場する娯楽ファンタジーでありながら、中身は「殺人」あり「推理」ありの本格ミステリー。シナリオの要所要所に出てくる「愛がなければ視えない」などの意味深なメッセージ。──ぼくは魅了されました。

 

 

シリーズを最後まで遊んでから数年経った頃、書店で見つけたのが『うみねこのなく頃に 〜最後で最初の贈りもの〜』だったのです。これは『うみねこのなく頃に』本編の真実や設定紹介、サイドストーリーなどのテキストをまとめたもので、実質的なネタバラシと言っていいでしょう。

 


 

グッときたポイント 

 

 

魔法

 

『うみねこのなく頃に 〜最後で最初の贈りもの〜』を読み返して気付くのは、ここには「魔法」に関する洞察があるな、ということでした。

 

 

たとえば、冒頭にある魔法について書いた文書は、「この世に満ちているあらゆる力や現象は、すべて奇跡であって、当然のことのように享受できるものなど、何一つない」とあります。この姿勢を理解していなければ、魔女は魔法を使えない、と説くのです。

 

 

もうちょっとまとまった形で見てみましょう。

 

魔女が魔法を行使しているのではない。

魔女が願い、それを与えられ、それに感謝する。

その気持ちを忘れては、“魔法” を扱うことなど、永遠に至らない。

つまり、この世の “全て” は、全て奇跡なのである。

 

(「親愛なる魔女見習いへ。 〜魔法について〜」p9)

 

『うみねこのなく頃に』から離れて、じっさいにぼくたちが属する世界の魔女にあっても、上で引用したことは了解されていると思います。魔女たちは地水火風のエレメントにお願いをし、授けられた奇跡に感謝するのですから。

 

 

続いて、魔女について見てみましょう。

 

 

 

魔女

 

魔女は、男性であっても魔女ならば、魔女です。

 

 

──『うみねこのなく頃に 〜最後で最初の贈りもの〜』の本の中で示されているこの認識に、ぼくは「魔女とは何であるか」を誠実に考えているな、と感じます。

 

 

「誠実に考えているな」と言ったのは、この本に書かれていることから、魔法や魔女の神秘に感じ入ることのできる鍵があるんじゃないかと思えるということでもあります。

 

 

たとえば、次の箇所は魔女イメージを元気を注入するヒントがあるように思います。

 

魔女は自由と力を求めれば求めるほどに、あらゆる制約から比例的に解放されていく。

制約とはすなわち、物質的な世界のこと。

 

(「ラムダデルタ卿による回想記」p23)

 

魔女は自由を求め、力を求める。そうするほどに、あらゆる制約から解放されていく。これなどはスピリチュアルの世界で言われている〈自分軸〉で生きるといったテーマにも通じているのではないでしょうか。

 

 

あらゆる制約とは、人間関係を含め、いわゆる常識のことだと考えていいと思います。

 

 

制約は「物質的な世界」のことだという認識を納得するためにも、また引用させていただきます。

 

全ての存在は、運命に翻弄される側と運命を生み出す側の二極の間のどこかに位置していると説明できる。

運命に翻弄されるのがニンゲン。愚かで哀れで、何も生み出せない。

……しかし、足の下には踏みしめる大地がある。そしてその大地は決して裏切らず、生涯、奈落への墜落の恐怖に怯えることなく暮らすことが出来る。

運命を生み出すのが、神々。そして造物主。全知全能で、全てを生み出す。

……しかし、全てを生み出し、全ての制約から解放されているということは、足元に大地という制約すらないことを意味する。

全ての制約を完全に失った存在は、……全てを手にする代わりに、それらの “意味” という制約すら失う。……生死の概念すらなくなり、存在の意味さえもなくなり、……ゼロの域に達する。あるいは、転落する。墜落する。崩壊する。雲散霧消する。

その中間に位置するのが、私たち魔女なのではないかと思う。

私たちは運命を生み出し、弄ぶ。その狭間を回遊する。

しかし、ある一定の制限に甘んじ、自分が転落しない程度の足場を残す。

 

(「ラムダデルタ卿による回想記」p24)

 

物質的な世界は「大地」の言葉で言い換えられていますね。大地は、ぼくたちニンゲンがお互いが安心できるといった仲間意識や、円滑なコミュニケーションを図るうえで機能する〈常識〉のことと見てもいいでしょう。

 

 

この本の中では「奇跡である魔法」を「よくある現象」として殺す、合理的な世界観もまた、「物質的な世界=大地」であると述べています。

 

 

神聖なものだという理解を無くし、感謝の念を起こさせなくしたのが大地、で、その大地を足場にして立っているのがニンゲンなのだ、と。

 

 

一方には奇跡への感謝する心を失った運命に翻弄されるニンゲンがいて、もう一方には概念を持たず運命を生み出す神がいる。魔女はその中間にあって運命を生み、運命を遊ぶ。

 

 

このくだりはどうも、スピリチュアルの世界での「肉体を持ったままアセンションする」ことを連想させられます。あるいは「目覚めを決めた人」のことが。

 

 

魂の覚醒が進むにつれて「パラレル」を意識させられます。パラレルとは「波動現実」などとも言いますが、その人の波動によって体験する現実が異なることです。ラジオを持っている人同士でも別々の周波数に合わせていたら違ったラジオ体験がある、みたいなものですね。

 

 

「肉体を持ったままアセンションする」あるいは「目覚めを決めた人」も、どちらもパラレルの移動や創造ができるようになると言われています。宇宙を創造することは神でなければできないことだとして、魔女は神が創造した宇宙の中で、自分が体験する「現実の次元(=パラレル)」を移動したり創造できる。それでいてニンゲンほどではないにしても、地上の制限の中にある。そんな魔女だからこそ、ぼくは魔女とアセンションした人とが重なるように思ったのです。

 

 

 

 

「愛がなければ視えない」。わたしがこのメッセージに惹かれたのは、ただの趣味というだけではなく、『うみねこのなく頃に』という作品世界を〈読む(リーディングする)〉ための重要なカギとなる言葉でした。

 

 

それはさておき、

 

 

魔女は運命を生み出し、運命を遊び楽しむ。このことは魔女が現実を創造できることを表します。こうした魔女が行使している能力は、スピリチュアルの世界でも共有されているものです。というのも、目覚めた人が「引き寄せの法則」なり「思考の現実化」あるいは「最適化」でもって現実を創造しますからね。

 

 

『うみねこのなく頃に』では、魔女が「運命=物語世界」を創ります。舞台で上演されるための戯曲のようなものです。『うみねこのなく頃に 〜最後で最初の贈りもの〜』にある「我らの告白」という、いわば『うみねこのなく頃に』の

ストーリー全体のネタバレ文章ともいえる文章で語られています。

 

 

「我らの告白」では、『うみねこのなく頃に』の作中でおもに「運命=物語世界」を「執筆=創造」している魔女(ベアトリーチェ) の未完成原稿を託されたキャラクターであるノックスが、その未完成原稿を世間に公開するかどうかが書いてあります。

 

 

わたしが興味を惹かれるのは、ベアトリーチェが自分は一つの「運命=物語世界」を描くのに「表の物語」と「裏の物語」とを書いていて、それは「ミステリーの物語」と「ファンタジーの物語」であり、公開されるのはどちらか一方であるということ。そして、それは「表の物語=ミステリーの物語」であるということ。愛がなければ視えないのは、表の物語から裏の物語を見透すことだということ。

 

 

ノックスの言葉がまた、わたしをくすぐります。

 

愛がなければ視えない。

彼女の言葉だ。

だが言い返そう。

誰の心にも、愛はある。

それが視えなかったことこそが、彼女の悲劇なのである。

 

(「我らの告白」p192)

 

『うみねこのなく頃に』を一旦を離れて、上に引用した文章を読んでみますと、わたしは私たちが現に生きている現実世界のことを思わずにいられません。この現実も創造されたものであるとして、この現実世界は「表の物語=眠りの世界」があり「裏の物語=目覚めの現実」がある。ところがさらに、愛がなければ視えない世界がある。──この構造と言いますか、イメージと言いましょうか、これが気掛かりなのです。しかしこの気掛かりは『うみねこのなく頃に』の作品とは関係ない(笑)

 

 

わたしの関心に集中してみますと、わたしはどうやら魔女のおこなう「運命=物語世界」の創造を、無数にあるパラレル(可能世界?)から一つのパラレルを選び創り出すことと関連させているようなのです。そうやって体験することとなったパラレルは、見方を変えると「私たちに贈り与えられた運命」です。

 

 

運命には幾つか、少なくとも2つのバージョンがあって、それが「眠りの現実」と「目覚めの現実」なんだと思っています。このパラレル感覚は目覚めの現実を生きようと心掛ける人にとっては馴染みのものかもしれません。思い通りになったり、偶然が重なって奇跡的な展開が起こるなら、それはそのパラレルが「目覚めの現実」のバージョンだというわけです。対して、とくに何か起こらなかったり、テンションの下がるようなことが起こるなら「眠りの現実」であるといった具合で。

 

 

さて、「私たちに贈り与えられた運命=パラレル」のバージョンの3つ目を考えてみたいのです。パラレルは眠りの現実だと、私たちは自分で作っているという意識はなく、自分の思い通りにならない世界を生きている状況がある。目覚めの現実においては、私たちが自分で作り出したものとしてパラレルはあります。この点では「パラレル=私たちが創り出した運命」であって、「贈り与えられたもの」ではありません。

 

 

わたしが思うに、「贈り与えられたもの」としてパラレルをまなざすとき、そこには「贈り与えられている自分」が浮かび上がります。これこそが愛がなければ視えない、いわば「運命愛の現実」なのではないか、と思うのです。運命愛の現実に生きる。それが愛がなければ視えない、パラレルの相なのではないかしら。そのとき〈現実〉と呼ばれるものは、その現実を生きる私たちに贈られたラブレターのようなものなんじゃないかな、なんてことを思うのです。

 

 

「誰の心にも、愛はある。」その人の愛に照らされることによって私たちは、一面では押しつけられ、他面では創りだされる「パラレル現実」の別の面として(はたまたパラレルの有する全面的な意味として)、贈り与えられているということの愛を〈読む(リーディングする)〉ことができるんじゃないかな、なんてことを思うのです。

 

 

 

要点のようなもの 

 

  • 魔法を扱うならば自然への感謝を忘れてはならない。
  • 魔女は神が創造した宇宙の中で、自分が体験する「現実の次元(=パラレル)」を移動したり創造できる。
  • 一面では押しつけられ、他面では創りだされる「パラレル現実」の別の面として(はたまたパラレルの有する全面的な意味として)、現実は私たちに贈り与えられている。
 
 
 

今日のメッセージ 

 

ここではわたしと片割れとが共作した

オリジナルのラブ短歌カードを1枚引き、

それをメッセージとしてリーディングします。

 

書かれている短歌はすべて

わたしから片割れに向けて書いた

ラブレターになっています。

 

なので、すべての短歌が

パートナーを愛する想いの詰まった

愛の波動の高いメッセージになっていると思います。

 

 

 

 

    

願わくは夢見る頃の夢であれ

叶えよ叶え君は青春

 

【リーディング】

夢見る頃を過ぎても…なんて言葉があります。

そこには一種の夢を諦める季節の自覚があり、

その自覚に抗おうとする気概がある。

あなたには叶えたい願いがありますか?

それを願うとき、人は「願う神」となります。

願う神は、夢見る頃の夢になる、その姿を云うのです。

神となったあなたは願いを願うそのことによって

自分が叶う現実を作り出せるでしょう。

 

 

 

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