学生時代の友人がヨルダンの難民キャンプで働いている。

英語どころか日本語も危うい私と違い彼女はとても語学に長けていて、ヨルダンではアラビア語を、ベトナムの日本人学校で働いていた頃はベトナム語を話していた。

もう十年以上も前、ベトナムにフラフラと遊びに行き、空港からのタクシーで片言の英語を使いまんまとぼったくられホテルに着いた私に、

「やっぱりねー」と言い、

そこから彼女の家に向かうタクシーで運転手と「ちょっとそこ!まわり道すんな!」的な怒鳴り合いを繰り広げ…驚き

こんなキャラだったけか…?

などと思った思い出が。

日本人だとナメられないようになるべく現地の言葉で話す、というのが彼女のポリシーらしい。


その時もうヨルダン行きは決まっていて

「また遊びに来てよ〜」と冗談めかして言う彼女に、中東=紛争地というくらいの知識しかなかった私は、いやさすがに無理でしょ、とやり返していた。


何故わざわざそんな危険そうな場所に行くのか、私には彼女の詳しい心の内は知りようもなかったが、

その後何年もヨルダンで活動を続け、ちょくちょく更新されるfacebookを覗き見するに、激しい砂埃のまじったアラブの風は彼女に合っていたのかもしれない。



そのうち、情熱大陸という番組に出演するという噂が知り合いうちで回ってきて、どんなものかと観ると、あの時のベトナム人ドライバーと同じ様にアラブ人と怒鳴り合いやり合ってる姿を目撃し、吹き出しそうになるのと共に頭の下がる思いがした。

戦争で家や親を失ってしまった子供にどんな教育を届けるべきなのか、葛藤している姿がそこにはあった。

なんだかいつもどおり怒り通していた。


とにかく、誰も言うことを聞かない(←特に大人)その辺の野良犬に石をぶつけて殺してしまう子供、自分も傷つけられ失い続ける生活の中、犬を殺すのが悪いなんて道徳感情ももとより無いのだ、と、彼女は言う。

言葉よりもまず、感情のやり取りも難しい中で、ただただそこで生きる人とぶつかり怒りながらコミュニケーションをやっと少しずつとっていく、

何年も何年もかけて。


だからどちらが正しいとか間違っているかではもちろんなく、思想や宗教や多様性の問題でもなく、ただ、そこに傷つけられ生きる人のことをいかに身近に考えられるか。


ハマスのテロ攻撃というニュースが入ってから、連日報道されるようになったイスラエルパレスチナの報道は、隣国ヨルダンでも毎日大規模なデモが起きているそうだが、日本ではさらりと流されるニュースにどれだけの人が関心を寄せているのだろうか、とふと思う。

暫く更新のなかったfacebookに、デモやガザで起きている虐殺・攻撃に、知り合いの身を案じる文章がアップされる。

私も含め、何十人のフォロワーが、心配や共感のいいね、を送るけれど。

私のフォローする数少ない繋がりある知人で戦争を語る人など他にもちろん無く。

日常のこと、子どものこと、嬉しかった事、当たり前のような平和な出来事に挟まれる様に彼女の文章はある。

私の見るsnsやニュースやワイドショー、戦争の裏側で何事もない様に平和に笑い続けることが出来る自分。

その違和感。


違う文化だから、違う世界の事だから、自分とは関係のない事だから、流れてくる映像や情報がまるで映画のワンシーン程度にしか目に映らない私たちの裏側で、ただ行く末を静かに注視していくしかない彼女のもどかしさを思うと、こんな呟き程度にしかならない文章も書かずにはいられない。


ガザの裏側で中々報道されなくなったウクライナとロシアの戦争、日本で報道すらされていないどこかの国の紛争や迫害。

平和の為だとか言って武器を流し(売り付け)続けるアメリカ他大国。

見えなければ自分達には関係ないと、想像すらする事もほぼ無いそこで、人が殺され、恨みが増幅し、どんどん膨らんでいて、本当に関係ないと私たちはいつまで知らぬふりが出来るだろうか。

いつまで私は自分の身体の心配だけをしていられるんだろうか。


燃やされ、骨が飛び出て、愛しい人を目の前で失くす人たちの無念さと恐怖を思う。

どちらが、とか、誰が悪い、とかどうでも良い。

あなた達がもし正義のためだとか口にするのなら


戦争と殺戮を止めろ、それしか言えない。