こんにちは、大井です。
本日は皇妃エリザベートとハプスブルク家の歴史に関する挿話をご紹介したいと思います。
今回のバート・イシュル滞在の目的は、保養と狩猟のほか、自身の誕生日を親族と過ごすことにありました。その席には、隣国バイエルンの叔母や従妹たちも呼ばれており、15歳のエリザベートもそこに同行していました。いとこ関係の皇帝とエリザベートはこの地で運命的な出会いを果たします。
婚約発表後に新聞で公開されたエリザベートの肖像画
『ライプツィヒ絵入り新聞』と『オーストリア絵入り新聞』より
ところで、当時の新聞をいろいろと調べていたら、ちょうど同じ頃、一人のオーストリア人女性が世間の注目を集めていました。ベルギーのブラバント公爵のもとに嫁ぐマリー・ヘンリエッテ(Marie Henriette Anne von Österreich)というオーストリア公女です。彼女は、オーストリア大公ヨーゼフ・アントン(Joseph Anton Johann Baptist von Österreich:3代前の皇帝レーオポルト2世の第7皇子でハンガリー副王)の娘であり、1853年8月22日にベルギー皇太子(後のベルギー国王レオポルド2世)と結婚することになっていました。
マリー・ヘンリエッテ
フランツ・ヨーゼフ1世がバート・イシュルの「お見合い」へ旅立った翌日、マリー・ヘンリエッテはブリュッセルの挙式へ向かうためウィーンを出発しています。この時期の新聞では、バート・イシュルへ赴く皇帝の動向よりも、公女ヘンリエッテのベルギー輿入れに関するニュースの方が盛んに登場します。オーストリアの人々の目は、まさにブリュッセルのロイヤル・ウェディングへ向いていました。
それだけに、突然舞い込んできたオーストリア皇帝の婚約発表は、世間で驚きをもって迎えられたのです。完全に意表を突かれた!という感じです。1853年夏のバート・イシュルが、まさか皇帝のお見合いの場としてセッティングされていたなんて!どうやら一般の人々は知らなかったようです。しかも、皇帝の結婚のお相手がバイエルン・マクシミリアン公爵家の19歳の長女ヘレーネではなく、15歳の次女エリザベートであったわけですから、二重の驚きです。
オーストリアとベルギーの不吉な王室関係
ここで注目したいのは、オーストリア帝室とベルギー王室の特別な関係です。上述のマリー・ヘンリエッテのケース以外にも、両家はさまざまな組み合わせのもと親密な婚姻関係を結んでいます。まず、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世のすぐ下の弟マクシミリアン大公は、ベルギー国王レオポルド1世の一人娘シャルロッテ(Charlotte von Belgien)を妻としました。また、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリザベートの一人息子、つまり皇太子ルードルフは、ベルギー国王レオポルド2世の次女シュテファニー(Stephanie von Belgien)と結婚します。
皇弟マクシミリアン大公と妻シャルロッテ 皇太子ルードルフと妻シュテファニー
そして興味深いのは、ベルギー王女をめとった両皇子のその後です。
前者の皇弟マクシミリアン大公は、やがて祖国を離れメキシコ皇帝に即位します。ところが3年後の1867年、民衆が起こした革命に遭遇し、現地で銃殺刑に処されてしまいました。フランス皇帝ナポレオン3世にそそのかされメキシコで帝冠を戴いたものの、窮地に陥った途端、見殺しにされてしまったのです。兄のフランツ・ヨーゼフ1世と母のゾフィーは、当初からメキシコでの彼の戴冠に反対していました。ゾフィーは、次男マクシミリアンを非常に溺愛していました。そのため、この悲報を知り泣き崩れた彼女は、一気に元気を失ってしまい、政治の一線からも退きます。「宮廷で唯一の男」といわれたゾフィーも、母性が強く情の深い一人の「女性」であったということでしょうか。
そしてベルギー王女をめとったもう一人の皇子も衝撃的な死を迎えます。ハプスブルク家の皇太子ルードルフは、1889年、愛人と一緒にピストルで自ら命を絶ちました。「マイヤーリンクの悲劇」といわれるハプスブルク帝国史上類を見ない皇太子心中事件です。※この事件についてはいずれブログでも深く掘り下げる予定です。
つまり、皇帝の有力な後継者二人が相次いで悲劇的な最期を迎え、両者に共通していたのがベルギー王女との婚姻でした。皇帝の近親者二人のこの末路は、ミュージカル「エリザベート」でも描かれ、帝国滅亡のストーリーと重ねられています。つまり、二人は皇位継承順位第1位と第2位に当たる人物だったのです!帝国に与えたダメージは計り知れません。
特に皇太子ルードルフが抱えた心の闇と自殺は、ミュージカル第2幕のハイライトともいえる重要なシーンに取り込まれています。
♪「闇が広がる Die Schatten werden länger」
妻たちのその後
34歳でメキシコに散った皇弟マクシミリアン大公。その妻のシャルロッテは、メキシコで窮地に陥る夫の救援を求めるためヨーロッパへ渡り奔走します。しかし、成果が得られないまま夫はメキシコで処刑されてしまいました。一人残された彼女も、精神を病んだまま祖国ベルギーで余生を送り、86歳でこの世を去ります。
30歳で自ら命を絶った皇太子ルードルフ。妻シュテファニーは、夫の死後ハンガリーの貴族と再婚し、1945年に81歳で没しました。新たな子供には恵まれませんでしたが、亡きルードルフとの間の一人娘エリザベートは、皇室出身の社会民主主義者(「赤い大公女」)という変わった経歴で歴史に名を刻みます。皇妃エリザベートの同名の孫娘が、社会主義と女性解放の運動に身を投じ貴族社会に反旗を翻すとは!皇妃エリザベートからルードルフへ、そしてルードルフからその娘エリザベートへ、自由を尊ぶ気質は継承されていたのかもしれません。
このように、夫の非業の死に直面しながらも、二人の元ベルギー公女は長寿をまっとうしました。
ちなみに、ベルギー王室に嫁いだ前述のオーストリア公女マリー・ヘンリエッテも、夫である国王との折り合いは悪く、幸福な結婚生活とはいえないものでした。国王レオポルド2世は、性格にもちょっと癖があり、アフリカにおける過酷な植民地統治で悪名高い人物でもあります。また、愛人との間に2人の私生児をもうけるなど、プライベートも破天荒で国民からの信望を失っていました。
エリザベートと現在のベルギー王室
最後に話を皇妃エリザベートに戻して終わりたいと思います。彼女は、義弟と息子の嫁である二人のベルギー王女とはあまり仲が良くなかったといわれています。ところが歴史とは不思議なものです。エリザベートとベルギー王室の因縁にはまだ少し続きがありました。エリザベートは、すぐ下の弟カール・テオドール(Carl Theodor)と幼い頃から非常に仲が良く、眼科医になったこの2歳違いの弟とは生涯深い親交を結びました(遺品の管理も任されています)。そのカール・テオドールの娘、つまりエリザベートの姪は、なんとベルギー第3代国王アルベール1世(在位:1909年-1934年)の妃になります。そして彼女の名前は、同じエリザベート!しかも、1876年にエリザベート皇妃が幼少期からお気に入りにしていた館、バイエルン・ポッセンホーフェンで生まれた女性です。
カール・テオドール 幼い頃のエリザベートとカール・テオドール
ベルギー国王アルベール1世と妻エリザベート王妃
ということは、ベルギー王国の現在のフィリップ国王は、オーストリア皇妃エリザベートの弟の玄孫ということになります。つまり、現在の国王に至る最近3代のベルギー王位は、いずれも皇妃エリザベートの弟の子孫です。エリザベートは二人のベルギー王女、つまり義妹シャルロッテ、義娘シュテファニーと不仲でしたが、皮肉なことにベルギー王室とはさらに深い縁で結ばれていることになります。
かつて南ネーデルラントと呼ばれたベルギー。経済的に豊かなこの地は、近世のおよそ300年間、ハプスブルク家(スペイン・オーストリア両家)に支配されました。独立国家を持てたのはようやく1830年になってからです。その長い抑圧の歴史のなかで溜め込まれたベルギーの人々の怨念が、19世紀のハプスブルク家へ降りかかったのでしょうか?ベルギーとの「呪われた結婚」。もしかしたら、これがハプスブルク帝国の滅亡を少しばかり早めてしまったのかもしれません。
おわり