現在、伊賀忍者を題材に扱った『忍びの国』(大野智、石原さとみらが出演)が上映されています。戦国最強を誇る織田軍に、伊賀忍者の自治組織が戦いを挑むという痛快無比のストーリーです。

 

史実で言えば、天正7年(1579年)と天正9年(1581年)に起きた「天正伊賀の乱」ということになりますね。とてもダイナミックな響きのするこの歴史的事象、見方を変えれば「信長の息子・信雄(のぶかつ)が無断で伊賀に出兵して返り討ちに遭い、オヤジにめっちゃ怒られた」という、ホームドラマにしてもおかしくない事件でもあります。

 

信雄が伊賀を責めたのは、至極個人的な事情によるもので、信長が推し進める天下統一事業とは何ら関係なかったことから、信長が怒り心頭になるのもむべなるかな、と言った感じです。

 

当時、信長は摂津の石山本願寺攻めに手を焼いていました。長兄の信忠の軍もそれにかかりっきり。身内の苦労を差し置いて、自分の欲望のために独断で兵を動かすとは何事か、と思ったのでしょう。信長は摂津の陣にて信雄を叱責する書状をしたため、こう突き放したのです。

 

「この度の負け戦は若気の至りという言葉で済ますにはあまりに軽すぎる、いや天の道理に叛く恐ろしい行為と言っていいだろう。出兵の動機はまさか隣国と合戦すれば上方の戦に参加しなくて済むと考えたからではあるまい。もし本当にそのような考えで失態を演じたのなら、親子の縁を切ると思え」

 

ちなみに、この戦いで柘植三郎左衛門という武将が討死しています。無駄な戦いを強いて、貴重な人材を失わせたことに対しても、信長は厳しい言葉で息子を責めています。

 

それにしても、信長の怒り方は尋常ではありません。「親子の縁を切る」とまで言わせたのは、信雄の敗戦が単にだらしなかっただけでなく、相手が武士の集団ではない、単なる平民や農民、忍びの混成集団に負けを喰らい、天下の物笑いになったからと言えなくもないでしょう。

 

1回目の天正伊賀の乱で伊賀忍者に敗北を喫した織田軍。その雪辱は3年後、再び織田信雄を総大将に迎えて果たされることになります。

つい最近、織田信長が鷹匠の長男に領地の相続を認める文書が発見され、話題となりました。

 

信長、鷹匠厚遇の書状発見 徳川美術館で展示

 

このニュースを見れば分かるように、信長という人は鷹狩りの愛好者でした。

 

愛好者だなんて、そんな生易しい表現じゃ足りないかもしれません。信長の鷹狩りに対する愛着、執着、情熱ぶりは異常で、時間さえあれば従者を伴い、鷹狩りに励んでいました。

 

鷹と言えば、大きな翼を広げて力強く飛翔する空の王者。天下統一を目論む武人としては、圧倒的な存在感への一種の畏敬と憧れがあったのかもしれません。

 

そんなバカがつくほどの鷹フリークである信長には、こんなエピソードもあります。天正5年の11月に上洛した際、信長は二条家の新邸に参内する機会を得ました。配下の武将たちが思い思いの衣装を着て花を添える中、信長ひとりは鷹狩りの装束で二条家の当主と面会。こんなところでも鷹狩り好きを強烈にアピールしたのであります。

 

その後は天皇にも拝謁し、自慢の鷹を披露します。それが済むとその足で東山へと向かい、早速鷹狩りに興じたとのことです。天皇拝謁も信長からすればついでの用事にすぎなかったのでしょうね。

 

そんな一から十まで鷹鷹鷹の信長でしたが、その日、あろうことか大事に育ててきた鷹が行方事れずになるという災難に見舞われます。部下の者を走らせ、夜通し山中を探索させましたが、見つかりません。仕方なくその日はあきらめて探索隊を引き上げることに。信長はさぞかし悲しみに暮れたでしょう。信長の部下はさぞかしぶつくさ文句を言ったでしょう。山の中でやぶ蚊に刺されながら。

 

しかし、翌日になって大和国の越智玄蕃(げんば)という人が、信長のもとに鷹を持参して現れたから、急転直下で鷹行方不明事件は解決します。信長「やったぜベイビー」と昇天したに違いありません。

 

鷹を連れてきた越智という人は、褒美として衣服一重、秘蔵の馬を下賜されます。そのうえ、領地が没収されて収入がないと嘆くと、電光石火の返還命令によって領地の回復に成功。ほくほく顔で帰っていきました。

 

ニュースに出てきた鷹匠と同じく、越智という人物にも旧領の所有を認める朱印状が渡されました。ひょっとすると日本全国には、信長の鷹狩りが高じて乱発された文書がゴマンとあるかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

福沢諭吉といえば、歴史に詳しくない人でもご存じのはず。みんな大好き万札の顔の人で、名門・慶應義塾大学の創立者。これだけみても人格者のように感じ取れますが、子どもの頃はとんでもないガキだったのです。

 

ある日のこと、神様の祟りなんて本当にあるのかと疑念を抱いていた諭吉少年は、大胆な実験を試みます。神様の名を記した御札を、わざわざ踏んづけたのです。大人たちの言うように、バチが当たるのかと思えば、何も起こらない。諭吉少年は何だかがっかりします。神様が出てきて怒るほうが、子ども心には楽しいのです。

 

あきらめきれない諭吉、今度は「稲荷様を見てやろう」と企み、叔父の家にある稲荷様を祀る神棚を開けてのぞき込むミッションにチャレンジ。何か得体のしれないものがそこに隠れているのかと思いきや、あるのは不格好なかたちをした石のみ。これにも諭吉はがっかりしてしまいます。

 

しかし諭吉の実験はこれで終わりません。今度は、神棚にあった石を別の石の取り換えたらどうなるのかという、不謹慎極まりない行為に走ります。その辺に転がっていた石が祀られたお稲荷様に対し、かしこまって手を合わせる来客、恭しくお神酒を上げて「家内安全、商売繁盛…」とぶつぶつ神に祈る叔父の姿を見て、必死に笑いをかみ殺す諭吉。神様の姿を確かめるという目的が、ただのイタズラにすり替わり、「神様なんていないのに、バカだなあ」とうそぶくその姿、神童どころの器じゃありません。

 

子どもの頃の話といえ、福沢諭吉の無宗教っぷり。そんな人が、現代のお金の神様として私たちの財布の中に鎮座しておられるのですから、こんなブラックジョークは他にありませんね。

織田信長という人はご存じの通り、珍しいものが好きな人でした。珍奇なものを可愛がる豊かな感性、誰も目を付けないところに光りを見出す慧眼は、信長という武将がいかに稀有な存在だったかを物語っています。

 

信長はよく、部下の小さなミスにも激烈に怒って冷酷に処罰した逸話が山ほどあります。しかしそれとは逆に、手厚い褒賞を与えて部下を喜ばせたエピソードも同じくらい豊富で、その落差に現代の私たちは戸惑いを覚えるしかありません。

 

これもまた、常人離れした信長の感性がなせるワザなのでしょうか?

 

信長の居城のある安土山で、1500人の武将を集めて相撲を取らせたことがありました。この数字がどれほど真実か知る由もありませんが、実際に1500人規模の相撲大会をやらせるとすれば、かなりのビッグイベントでしょう。その模様を記述した『信長公記』によれば、相撲大会はわずか2日で終わったことになっています。相当マキマキで相撲取らせたことが予想できますね。

 

それはともかく、いい勝負を残した力士、勝ち星を挙げた成績優秀の力士、信長の印象に残る相撲を取った力士らは、ことごとく信長から珍しい賞品を授けられました。血縁によらない、実力を見て公平に評価する信長のことですから、この論功行賞は一点の曇りもないものだったと思われます。

 

とくに、目覚ましい活躍(?)をした力士らには、金銀飾りの刀、賞金、服のほか、100石の領地、そして私宅まで(!)与えたとのことです。

 

よく考えてください。ただの相撲大会ですよ。戦の一番槍で手柄を立てたわけでもないのに、この大盤振る舞い。くだらないことでも、褒められ、何かしらのご褒美にあずかれるチャンスがあれば、その下で槍働きする魅力も小さくなかったと言えるでしょう。

 

しかし、ちょっとでもミスをすれば首が飛ぶかもしれないリスクを考えると、それこそ命がけのご奉公。まさにハイリスクハイリターン。ギャンブル的な感覚で信長に仕えた武将も多かったかもしれませんね。

「運も実力のうち」という言葉がありますが、平安時代の権力者・藤原道長も、強運に恵まれた男であります。

 

藤原兼家の五男である道長は、摂関家の生まれである以上、何もせずとも高位高官が転がり込んでくる身分でした。しかし、それにも順番というのがあります。何せ五男ですから、上の兄たちが健在な間は下っ端の扱いに甘んじなければなりません。参議や大納言には上りつめても、左大臣右大臣、まして政権トップの太政大臣、権力の最高ポストである摂政関白までは果てしなく遠い道のりです。下手をすれば、目の黒いうちに回ってくるかどうかもあやしいほど、気の遠くなる話でした。

 

ところが何の因果か、時を同じくして要職に就いていた兄たち(道隆・道兼など)が次から次へと流行り病にかかり、息を引き取っていきました。年をずらして病で亡くなるというケースは珍しくありませんが、同じ年に、しかも五位とか六位とか、太政大臣とか重要職にある高官たちがバタバタと冥界入りを果たすなんて、前代未聞のことでした。

 

当時、道長は中宮太夫という職で、まだ30歳。最高権力の座に就くにはまだ若く、実績も乏しかったのですが、「ほかに適当な人物がいない」という理由で、近衛大将、右大臣、翌年には左大臣、そして最終的には、天下執政の宣旨が下ってとうとう関白にまで上りつめたのです。

 

あまりにも出来過ぎた話なので、「出世に邪魔な兄たちを消すために、一服盛ったんじゃないの?」といぶかしむ向きもあります。しかし、たとえこれが病ではなく道長の謀略だったとしても、それはそれで凄いと言わざるをえません。

 

何せ、時の権力者たちをひとりではなく、何人も一度に葬り去っわけですから、こんな鮮やかな手口天才でなければ出来ないでしょう。どちらにしても、道長が尋常な人物でなかったと言えるわけです。

 

しかし、道長という男はただ運が強いだけではありません。若い頃にはこんなエピソードがあります。時の花山天皇が殿上人たちを集めてぶらぶら遊んでいいたとき、ふとこう言いました。

 

「何だか、今夜は薄気味悪いね。こんなに人が多く集まってもちっとも落ち着かないよ。こんな不気味な夜にひとりで外に出たら、さぞ怖いだろうね。今からひとりで大極殿まで歩いていける勇者はいないか?」

 

何で天皇の物の言い方がこんな感じなのかといえば、まだ若かったからです。それはともかく、天皇の呼びかけに対して、周りは誰一人応じる者がいません。天皇が退屈そうにしていると、ひとり道長だけが、「どこへでも参りましょう」と返事をしたのです。

 

これに天皇が飛びつき、「それは面白い。ならば道隆と道兼も一緒に向かえ。ただし、それぞれ別の道を使っていくのだぞ」と道長だけでなくいふたりの兄弟に対しても夜道を歩いて大極殿まで向かうよう命じました。

 

困ったのは道隆と道兼です。出しゃばりの弟のせいで、何で怖い思いをしなければならないのかと不満タラタラですが、天皇の命令なので従わないわけにはいきません。しかし、やはりどうしても怖くなってふたりとも途中で引き返してきます。あーだこーだと言い訳を述べて自己弁護に励みますが、その姿がまた情けなく、天皇の失望を買ったのでした。

 

それに対して道長はどうでしょう。彼は従者もつけず、漆黒の闇に包まれた外の世界へひとりで飛び出し、大極殿に向かって歩き出したのです。しばらくすると、何ごともなかったかのように涼しい顔で戻ってきて、小さな木の切れ端を天皇に差し出しました。

 

「これは大極殿の南側にある柱の切り込みです。証拠として持参いたしました」

 

若いながら勇気ある行動とたくましい胆力。これが天皇を喜ばせなかったはずはありません。一方、夜の不気味さに負けておずおずと引き返してきた道隆と道兼の不甲斐なさと言ったら、目も当てられなかったことでしょう。この逸話が本当だとしてら、道長の出世は偶然でも何でもなく、至極穏当な結果だったと言えるのではないでしょうか。