歴史系図トリビア
これは楽しい!おもしろい!
そう感じるような歴史上の人物の系図を
紹介していきます

みなさんこんばんは(´Д` )

本日は歴史好きなぶたさんの大好物!

楽しい歴史系図でございます(´Д` )!

ぶたさんは歴史上の人物の系図がとにかく好きなんです。



はい(´Д` )

本日は斎宮女御・徽子女王の系図を見て行きたいと思います。

徽子女王は平安時代中期の歌人で、伊勢神宮の斎宮となり、退下後に村上天皇の女御となって、斎宮女御・承香殿女御と称されました。

三十六歌仙の一人に数えられ、家集に斎宮女御集があります。

では系図を見て行きましょう。



徽子女王は重明親王の第一王女で、母は関白・藤原忠平の娘・寛子です。

重明親王は醍醐天皇の第四皇子(母は源昇女)であるため、徽子女王は醍醐天皇の孫に当たります。

天皇の孫であり、藤原北家の血も引く高貴な生まれですね(´Д` )

なお、父の重明親王は才学に優れ、式部卿となり、『吏部王記』を記した人物です。



徽子女王は朱雀天皇の御代に伊勢斎宮となり、同母妹の悦子女王もまた村上天皇の御代に伊勢斎宮となりました。

姉妹揃って斎宮経験者だったのですね(´Д` )



徽子女王の母・藤原寛子の没後、父・重明親王の継室になったのは藤原登子という女性です。

登子は藤原師輔の娘で、母は藤原経邦女・盛子であり、徽子女王にとっては従姉妹に当たります。

徽子女王には、登子所生の異母妹も二人いました。

このうちの一人は藤原朝光室となり、姚子(花山天皇女御)・朝経・登朝を生みました。

もう一人の異母妹は一説に藤原定子の乳母で、源助理室となり、また尾張正佐室となった祐子女王だと言われていますが、定かではありません。



徽子女王は斎宮退下後、叔父に当たる村上天皇の女御となりました。

元斎宮の女御ということで、斎宮女御と呼ばれるようになります。

なお、村上天皇の中宮は義母・登子の同母姉で徽子女王にとっては従姉妹に当たる藤原安子でした。

藤原安子は冷泉天皇・為平親王・円融天皇・承子内親王・輔子内親王・資子内親王・選子内親王の三男四女を生み、藤原伊尹・兼通・兼家など同母兄弟たちの栄達の道を開いたことで知られます。



徽子女王と村上天皇との間には、第四皇女の規子内親王が生まれました。

皇子も生まれましたが、夭折したようです。

規子内親王は異母弟の円融天皇の時代に伊勢斎宮となり、徽子女王と規子内親王は母娘二代の斎宮となりました。

規子内親王の群行に当たっては、先例に反して母・徽子女王も同行しており、これが『源氏物語』における六条御息所・秋好中宮の準拠とも言われています。

規子内親王もまた和歌に秀でていたらしく、規子内親王前栽歌合が知られています。



余談ですが、重明親王と藤原安子の没後、重明親王の継室で安子の同母妹である藤原登子もまた村上天皇に入内、晩年の寵姫となりました。

徽子女王にとっては、父の後妻が自分の夫の寵姫になったわけで、複雑な心境だったでしょうね。

なお、藤原登子は姉の安子所生の円融天皇の母代としての役割も果たしていたらしく、円融天皇即位後に従二位尚侍となり、貞観殿尚侍と呼ばれるようになります。



斎宮女御・徽子女王の系図をまとめました。

醍醐天皇の孫で重明親王の王女、母の藤原寛子から藤原北家の血も引き、元斎宮で村上天皇の女御でもある徽子女王は、三十六歌仙の中で最も尊貴な身分であり、歌仙絵の美しさでもよく知られています。



徽子女王の歌を載せてみました。

上の歌は琴の名手であったという徽子女王らしい歌ですね。

下の歌は規子内親王が斎宮になった際に伊勢に同行した時のものです。


以上、斎宮女御・徽子女王の系図について紹介しました。

天皇の代わりに神に仕える斎王には伊勢斎宮と賀茂斎院がありますが、斎宮の代表的歌人が徽子女王、斎院の代表的歌人が式子内親王と言えそうですね。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


※このページの作成に当たり、『尊卑分脈』や『栄花物語』の他に以下を参考にしました。

・小和田哲男監修『日本史諸家系図人名辞典』講談社、2003

・小町谷照彦校注『拾遺和歌集』新日本古典文学大系7、岩波書店、1990

・西丸妙子「斎宮女御徽子の周辺ー後宮時代考察の手がかりとして」(『福岡女子短大紀要』11、1976)

・西丸妙子「斎宮女御徽子の周辺(2)ー村上朝後宮時代」(『福岡女子短大紀要』12、1976)

・西丸妙子「尚侍藤原登子についてー斎宮女御徽子との関連において」(『福岡国際大学紀要』2、1999)

・倉本一宏『平安貴族の夢分析』株式会社KADOKAWA、令和6年