天正十四年正月以来、秀吉は大坂城二の丸、外濠の築造と並行して聚楽第の大工事を行なっていた。秀吉の権威を天下に誇示するためであった。

秀家は、この年の七月に従四位下、左近衛少将に昇進していた十五歳の少年が、何の戦功もないままに秀吉の推選によって、高位に昇進できるのである

 

十月二十日、大政所が人質として岡崎城へ到着した。翌二十一日家康は一万二千人の兵を率い、岡崎を発して京都へ向かった。家康が聚楽第へ伺候したのは、十一月二日朝であった。

 

秀吉は居並ぶ大小名の前で、大音声で告げた。「徳川三河守、上洛、大儀

同月二十五日、後陽成天皇の即位式がおこなわれた。同日、秀吉を太政大臣に任じることが内定し、十二月十九日に任官した

このとき、秀吉に豊臣姓が与えられた

宇喜多秀家はこの前後、左近衛中将に昇進した。以後豊臣秀家と称した。家紋にも豊臣家の「五七桐」を使い、岡山城の瓦にもこの紋が見られる

 

翌天正十五年正月元旦、秀吉は大坂城で、公家、諸大名、豪商らの年賀をうけるとともに、九州征伐の陣触れを発した

秀吉に従い出陣する豊臣本軍は、総勢八万六千百五十人である。九州攻めの総軍勢は二十万人である

宇喜多秀家は一万五千の人数で、島津攻めの先手を命じられた

宇喜多の所領は、直家在世の頃の備前・美作と播磨二郡に高梁川以東の備中数郡を加え、五十七万四千石である

秀家は出陣の命をうけ、岡山に帰城し軍勢を召集する。

 

正月二十五日朝、岡山城下に集結した一万五千の宇喜多勢は旗差物を林立させ、西へ向かった

宇喜多勢は、羽柴秀長、羽柴秀勝とともに、秀吉本陣勢の中核となっている。

秀吉が豊前小倉城に到着したのは、三月二十八日である。

宇喜多秀家は、大和大納言秀長、毛利輝元、小早川隆景、黒田官兵衛らとともに、豊前国境にいた。

 

三月下旬、宇喜多秀家は羽柴秀長の別働隊に加わり、日向から大隈へ向かい南下の命令を受けた。別働隊の兵力は十万人である

彼らはまず延岡の県(あがた)城を陥れ、四月六日、島津の武将山田有信が千三百人でたて籠る、高城を攻めた

羽柴勢はすさまじい火力で城兵を圧倒し、降伏させようとした。

 

 

岡山城天守裏(北)から見上げる 宇喜多秀家による石垣

 

 

 

「宇喜多秀家:島津勢との攻防」へ続く