岩崎城を落として首実検を終えた池田隊に、秀次敗報が届いた

池田信輝はただちに九千の兵をまとめて、長久手に旋回した。三河への奇襲を中止して、家康に正面から戦いを挑む腹を決めたのである。

 

池田軍(岐阜嶽)と徳川軍(仏ケ根)は谷をはさんで布陣した信輝は家康の動きを見つつ、鶴翼の陣をとった

 

左翼に婿の森武蔵守長可(蘭丸の兄)の三千右翼に長男紀伊守之助と次男三左衛門輝政が指揮する四千を配し、自らは二千の予備隊を采配することにして、布陣を終えたのは午前九時すぎであった

 兵力は両軍ほぼ同じである

 

信輝は少なくとも小半日は動くまいと見ていた。しかし、家康は早かった

布陣を終えると同時に、鉄砲隊を最前線に繰り出し、池田・森両軍に激しい一斉射撃を浴びせかけたのである。

池田勢は夜明け前に、秀次軍が潰乱しているだけに狼狽し、最初の銃撃で半数以上の兵が背後の林に逃亡した

 

そこに家康の本隊が左翼の森軍に突撃を開始した。森勢の混乱はとりわけ大きかったが、長可は鬼武蔵といわれる勇猛な武将である

味方の混乱を見て、愛馬「百段」に飛び乗ると、「われにつづけ!」槍をとって、家康の馬標めがけて突進した

五十騎の母依武者が一団となってあとを追ったが、二丁も走らぬうちに、森武蔵守長可はまっさかさまに馬からころげ落ちた

銃弾で額を撃ちぬかれたのである。即死であった

鬼武蔵の異名で勇名を馳せた長可のあっけない討ち死であった。享年二十六歳

 

鬼武蔵が銃弾に倒れた頃、信輝の予備隊も潰滅していた。池田勢は算を乱して松林に敗走した

采配を腰に差したままの信輝が、ただ一人床几に腰を下していた。信輝を護る母依武者一人いない。

その信輝の胸に、安藤直次の繰り出した槍の穂が、春の陽を受けて奔った直次はのち紀州五十五万五千石徳川頼宣の付家老となった安藤帯刀である

「手柄にせよ」信輝は笑おうとしたが、頭形の兜の下で苦痛にゆがんだ。

直次にわき腹を突かれていた直後、永井伝八郎直勝に黒糸縅の具足の上から、肩のつけねを深々と斬りおろされた

 

永井もまた、池田信輝の首をはねて以来、数々の武功に恵まれ、のちに下総古河で七万二千石の大名になる

長久手に出陣したおりの信輝は四十八歳であった。之助に代を譲り、入道して勝入と号していた。

紀伊守之助は二十三歳、輝政は二十歳であった

 

長久手古戦場公園にある石碑

 

 

続く