謹 賀 新 年

              新年のご挨拶を申し上げます

私事ですが、2015年・2016年と二年に亘り肝硬変の治療のため、入退院を繰り返しました。

本年は、良い状態まで回復したいと願っています。

今年もよろしくお願いいたします。

 

昨年の大河・真田幸村の勇姿です

 

平成の大改修前の姫路城天守群です

 

「宇喜多直家:織田信長に鞍替」

天正七年(1579)六月十三日、三木城を包囲する秀吉の平山本陣で、肺をわずらい病を養っていた竹中半兵衛重治が陣没した。享年36歳であった

黒田官兵衛も有岡へ出向いたまま、戻ってこぬに、こののちは小一郎(秀長)と小六(蜂須賀)を頼らにゃならんだわ」

窮境に陥りかねないと思った秀吉は、岡山城下の小西弥九郎に使者を送り、宇喜多直家の誘降を命じた。

 

弥九郎は直家にさっそく秀吉の意向を伝えた。

三木城は、城内八千の者どもは飢えに苦しみ、もはやあと半年とは保ちませぬ。有岡城にたてこもる荒木もまた、高山右近、中川清秀に叛かれしのちは、これも半年とは支えられませぬ。殿には、いまのうちに信長公に降参なされてはいかがでござりましょうか。三木城が落ちたのち、羽柴勢が岡山に向こうて参るはあきらかと存じまする。さいわい、いま秀吉殿より手前のところへ、お誘いの使者が参っておりますれば、色よきご返答をなされませ。さすれば備前一国はもとより、備中もご領分となりましょう

直家は弥九郎の誘いに応じた。直家の脳中は冴えわたっていた。彼は宇喜多家存続のためには、織田に就くよりほかに方途がないと決断した

 

九月二日の深夜、荒木村重は一族郎党を見捨て、有岡城を出て織田の攻撃をうけても毛利と連絡をとって、退路を確保しやすい尼崎城へ退いた

明智光秀が丹波、丹後を平定し波多野氏が潰滅したため、有岡城は織田の勢力圏に孤立することになった。

 

九月四日、秀吉は安土城へ出向き信長に謁して、言上した。

「かねてより毛利に離反いたし、われらに合力して参りし宇喜多直家の降参ご赦免の筋目を、申しあわせてござりまする。なにとぞ上様ご朱印を下されませ」信長は顔を朱にして声高に罵った。

猿めが、思いあがりしか。儂の存念をうかがいもせず、しめしあわすの条々、曲事だわ。問答無用、早々に三木表へ立ち返れ」秀吉は倉皇として御前を退出した。

 

直家は信長が自分の降伏を拒んだとの通報を秀吉から受けると嘆息した。

信長はよほど用心深い大将じゃなあ。儂をよう見抜いておるぞ。おえんのう。降参するには、ちと毛利を攻めにゃあならんぞ」

直家は主立った家来を城内へ呼び、軍儀を開いた。重臣たちのあいだには、毛利と断交するのを危ぶむ声が多かった。

直家は家老たちがためらうのは、毛利家へ人質として差し出している弟忠家の次男、左京詮家(のちの津和野城主「坂崎出羽守」で大坂落城の時、千姫を救出した)の安否を気遣うためであると察した

しかし毛利輝元は左京詮家を無条件で無事に帰したので、輝元の評判は備中、備前一帯にひろまった

※森本繁氏の説では:毛利家に人質として差し出していたのは、主席家老富川平右衛門の次男孫六で、たまたま岡山城下を通りかかった、毛利の外交僧安国寺恵瓊を城内に招き監禁して、富川孫六と人質交換したとある。

 

人質を取り戻した直家は、まず備中に出兵して清水宗治の居城高松を包囲させた。ついで、美作高田城の西南六キロの月田と東南八キロの宮山に新城を築き、高田城と備中の連絡を遮断した

 

荒木村重が尼崎城へ移ってのち、有岡城は十月十五日に配下の武将中西新八郎が、滝川一益の調略により、織田方へ寝返った

城兵は降参を申し出たが信長は許さなかった。敵方へのみせしめに、すべて撫で斬りにするという。十一月になって、有岡城は落城する

信長は捕えた妻子一族郎党六百余人を尼崎七松で虐殺した

村重は毛利氏を頼り剃髪して道薫と号す。晩年茶人として秀吉に仕え、千利休の門弟七哲の一人に数えられた

 

 

 

「宇喜多直家:美作での激闘」へ続く