小早川隆景は中島大炊介と相談し、調略の策をめぐらした。そのうちに先代・三村家親の頃から寵臣として重用されていた竹井宗左衛門、河原六郎右衛門が、毛利方へ寝返る相談をしていたが、秘密が先に洩れたので、家老の石川久式にとりなしを頼んだ。

「儂らはまったく別心など持っとりゃせんのに、身に覚えのないことをいいふらされて迷惑いたしおります。ついては殿に紙を奉りとうございます。なにとぞおとりなしをなされて下され」

 

石川久式は、二人の嘆願を本心であると信じ、持ち場である松山城本丸後方の天神丸砦を出て、元親に竹井らの願いを伝えることにした。

 

久式は六月二十日の朝、天神丸砦を出て本丸へ出向いた

久式と入れ違いに竹井と河原は、天神丸砦をおとずれた。門番は久式の留守中であるため開門を拒んだが、長期の籠城で不足している野菜のみやげを見せられて、

「儂らは野菜を届けたらじきに帰るけえ、門をあけときんさい」

 

門番らはいわれるままに門扉を開いたままにしていたが、突如武装した味方の侍大将大月源内、小林又三郎が部下数十人を率い押し入ってきた

続いて譜代衆数百人がなだれ込んできて、天神丸砦を占領した

竹井らは石川久式の妻子を人質にとった

 

三村家古老の家来たちはささやく「天神丸の謀叛人たちに合力すりゃあ、命が助かろう」身命を助かりたい者は、皆もっともであると同意した。

彼らは人質を毛利方の三村孫兵衛のもとへ差しだし三村元親に敵対して、手切れの矢を本丸へ射込んだ

 

仁義を知らず武士道にそむいた者は、楽々尾、杉、諏訪、南江、升原、佐藤、神崎、山本など元親譜代の家来たちで、浅ましいふるまいであると憎まない者はなかった。

 

 

元親は自ら三百余人を率い、久式とともに障子ケ滝へ押し出した。元親の郎党三村与七郎、梶尾織部、田井又十郎、上田加介らが、叫びつつ斬りこんでゆく。

「主に叛いた罰は、たちどころにあらわれるぞ。思い知れえ!」陣小屋に火を放ち、遮二無二突入した。

謀叛人たちは天神丸砦へ逃げ込み、危うい命を助かった

 

日が暮れかける頃、松山城から五・六十人の譜代衆が脱走した。大炊介の誘いに乗り、討死を覚悟していた腹心の勇士たちが、人質をともない続々と敵に降った

 

城内本丸に最後まで踏み留まったのは、石川久式、三村右京亮、井山雄西堂、日名助左衛門、吉良常陸、梶尾織部ら侍五十余人であった

彼らは小座敷に集まり、誓約の金打をして申しあわせた。

われらは死出の山路、三途の川まで殿のお供をいたそうでえ」元親とともに死のうとする家来の中に甫一検校がいた。

 

元親は最後の供を望む検校に命じたそのほうは眼が不自由なるに、よくいままで儂に従うてくれたのう。いまはともに死ぬべき理はないんじゃ。是非にも下城して京都へ戻らにゃあいけんぞ」元親は下城を拒む検校に数人の下僕をつけ、城から出してやった

だが下僕たちは城の麓へむかう途中、検校の衣類財宝を奪うため、刀で斬りつけ斬殺してしまった

 

検校とともに山を下った牢人中村善右衛門がこれを目撃し、怒って下僕たちに斬りかかり、その頭領日名源次郎を斬り殺した

 

 

備中松山城本丸を見る

 

二の丸上空から本丸を見た画像

 

 

 

「宇喜多直家:備中兵乱:三村元親の最期」へ続く