こんにちは。
今年も今月を入れてあと3か月。
毎年ここからは加速がついて早く時が過ぎる様な気がします。
さてさて前回からの続きにて。
今回は、設楽原にて武田諸将のお墓、供養塔などを廻って設楽原最終回と致します。
こちらは甘利信康公の石碑。
上田原で亡くなった甘利虎泰さんの息子ですね。
織田・徳川軍に協力した地元の庄屋さんの家の前で、立ったまま切腹したそうです。南無・・・。
横田高松(たかとし)親子の石碑。
確か高松さんは砥石崩れで戦死したのでは?と思いましたが。
息子さん達は長篠で亡くなったのだそうです。
武田四天王の一人。知将、内藤昌豊。
彼もまた、勝頼公が戦線離脱するのを見届けるとこの地に留まって戦ったのだとか。
小さな巨人、山県昌景公のお墓。
「飯富の赤備え」を継承した日ノ本屈指の名将ですね。
山県さんのお墓は少し小路を入ったところにあります。
地元の方が草刈りをしてくれていました。感謝です。
従者と昌景公のお墓。手を合わせてまいりました。
ギャッ昌景親分がヤられたー
すかさず家臣の志村又左衛門が首を切り落とし、敵に渡すまいと持ち帰ります。
因みにこの志村又左衛門、志村ケンさんのご先祖様らしいです。
ファミリーヒストリーでやってました。
最後はこちら。真田信綱、昌輝の兄弟のお墓。
一つの墓石に仲良く二人の名前が刻まれています。
この二人が生きていたら、昌幸や信繁(幸村)の活躍もなかったかもしれませんね。
従者の方々のお墓と設楽原を見守っています。
前田利家、佐々成政の鉄砲隊に向かって猛突進。
でも、川の手前でやられてしまっています。
追撃戦の時って忖度はあるのでしょうか?暗黙の了解といいますか、「俺たちがここで死ぬから追撃はするな」的な。
こういう時、案外、ピュアな信長公はわかってくれても、家康公が徹底的に追撃しそうな。知らないふりして。
新東名の新城I.C近くに湧き出る清水。
戦の前、諸将たちは、「あの世で信玄公に会おう」といって水盃を交わしたのです。
今でも綺麗な水が「何事もなかったかのように」滾々と流れ続けています。
最後までありがとうございます。
私が訪れた日は、時折雨降るあいにくの天気にて、全てを観て廻ることができませんでした。
ただ、「またおいでん」と云われているような気もするのでもう2、3回は行くことになるやもしれません。
*ひとへに、風の前の塵に同じ・・・。
今川氏真さん、憎めませんね。