こんにちは!
今日は名古屋城の外堀をご紹介します。(マニアックな!)
前回は中堀に沿って歩きましたが今回は更に外周の外堀です。
連休中ということもありいつもの駐車場が満車のため地下駐車場に停めます。
階段を登ると加藤清正公が現れます。
ほとんどの人が名古屋城正門の方へ向かいますが私は反対の南へ向かいます。年甲斐のない天邪鬼っぷりが案外快感です。
こちらは新御園橋の土塁です。城郭建築においては堀と土塁はセットで考察することが一般的になっておりますので当然この下が堀になっています。
場所は同上です。中日新聞本社の南側になります。
高さは約4m程でしょうか。東へずーと続いています。
同じく伏見通りの外堀土塁です。高さ、幅ともに申し分ないですね。
外堀に沿って東へ歩きます。上は名古屋高速が走っており、上からはよく車で景色を見るのですが歩いてじっくり見物するのは実は初めてなのです。
外堀通バス亭付近の堀です。
現在は空堀となっていますが築城当時は水堀だったようです。
本町橋です。ここが在りし日の名古屋城の正門なのです
現在の橋も古く明治44年7月とあります。
車がたくさん駐車してありますのでアップはしませんがこの本町橋から城内へ至る道はくの字にカーブしており桝形の跡を留めています。
こちらは大津橋脇の外堀です。
更に東へ進むと久屋橋があります。
栄、TV塔がすぐそこです。
栄でブラブラしたい衝動に駆られましたが我慢しました。
さらに東へ進むと市政資料館南の信号で堀は北へ90度曲がって北上します。従って私も北上します。
清水橋付近です。
かつては東大手門があり正門の次に大きな門でした。
さらに北上すると名鉄瀬戸線の東大手駅があります。
先ほどの大津橋の下ですが左下にわずかに見えるのが昔の大津駅のホームへ続く階段です。
私が子供の頃、昭和51年頃にはこの堀に名鉄瀬戸線が走っており、「お堀電車」といいました。ただ栄町に乗入れが決まると地下に潜ったため線路自体は無くなってしまいました。
私が子供のころはカラーですけどネ・・・
今からは想像がつきませんがここも名古屋城の外堀なのです。
さらに北上すると明和高校の辺りで外堀は消えています。
古地図をみても外堀は外周にあるのではなく南面を囲うようにコの字型になっていました。
前回の中堀を外堀と兼用としていたようです。
一旦スタート地点に戻ります。こちらは二の丸中堀です。
スタート地点では東へ向かいましたので今度は西へ歩きます。
こちらは御園橋、愛知県図書館の辺りです。
ここの石垣で団子三兄弟を発見
さらに発見
誰かの刻印かもしれませんが、案外石垣を作成中に腹が減って団子の絵を描いたのかもしれません。
昔の人の方が発想が自由ですからね。
こちらは卍が刻印されています。蜂須賀家でしょうか?
外堀も一通りなぞりましたのでスタート地点の巾下歩道橋の上から撮りました。清正公と能楽堂と天守閣です。
ここまでありがとうございました
こうしてみると灯台下暗しで歩くと様々な風や匂いを感じることが出来ました。
(スマホのヘルスケアを見ると8kmも歩いています)
運動不足も解消されて歴史散策もできて一石二鳥です。
*加藤清正像付近で写真を撮っているおじさんが、「熊本に来たみたいだなァ」と一言。熊本城も清正公の縄張りですよね。
清正公は地元尾張中村の出身ですから、築城の名手として徳川家に対する意地とプライドをかけて一番責任が重い天守閣の石垣を担当します。
同じく尾張美和(あま市)出身の福島正則も堀川という城造りのための運河を掘削します。
江戸時代の「続本朝通鑑」という書物に有名な小話が。
福島正則:「駿府、江戸は将軍家の城だから手伝ってやっても良いがここは妾の子の城ではないか。ここを手伝うなど我慢ならん!輝政、お前から家康に言ってはくれぬか?」
池田輝政:「ムム・・・・」
加藤清正:「滅多なことを言うな!嫌なら国へ帰り謀反の支度でもすればよい。それができぬなら黙って手伝うしかないではないか!」
江戸幕府統制下の書物に上記のような記述があるということは、西国大名でしかも豊家子飼いの大大名ですら幕府の威厳には逆らうことができなかったというエピソードを暗に示しているものと思われます。
ではまた次回。
*古い建築物が好きです。弊社ホームページも宜しく