紫衣(しえ)の寺、住持職(じゅうじしき)、先規希有(けう)の事也。近年猥(みだ)りに勅許(ちょっきょ)の事、且(かつ)は臈次(ろうじ)を乱し、且は官寺を汚し、甚(はなは)だ然(しか)るべからず。…」

 

 

 

現代語訳

 

 

紫衣を許される住職はこれまで少なかった。しかし、近年はむやみに勅許(天皇の命令による許可)が行われて、僧侶が修行を積んだ年数で決まる席次(順位)を乱しており、ひいては寺院の名を汚すこととなり、大変よろしくない状況である。」

 

 

 

 

 

 

さて、この史料は一体どのような史料なのでしょうか😅❓❓

 

 

 

 

 

紫衣」に関することは、『禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)』中の第16条に明文化されています。

 

 

 

 

禁中並公家諸法度とは、1615(慶長20=元和元)年に、江戸幕府が天皇・朝廷に対して命じた17条からなる法令です。

 

 

 

 

 

この法令は以心崇伝(いしん すうでん)を中心に起草が進められました。

 

 

 

 

以心崇伝とは、江戸初期の臨済宗の僧侶です。

 

 

 

 

京都南禅寺塔頭(たっちゅう:禅宗寺院において、亡くなった高僧の墓を守るために弟子たちによって墓の付近に建てられた小さな建物のこと)である金地院(こんちいん)に住んでいたため、金地院崇伝とも呼ばれています。

 

 

 

 

以心崇伝徳川家康の指示で国内外の古典を収集・調査し、『禁中並公家諸法度』以外にも、江戸幕府がキリシタン排除を宣言した文書である『伴天連(ばてれん)追放文』や、武家の守るべき義務を定めた法令である『武家諸法度』を起草するなど、極めて重要な役割を果たしていることがうかがえます😲

 

 

 

 

 

 

ところで、皆さんは「紫衣事件」と呼ばれる事件を知っていますか

 

 

 

 

 

まず、紫衣とは何でしょうか☻

 

 

 

 

紫衣とは、高僧が着用する紫色の法衣や袈裟(けさ)をいい、古くから僧尼(男性の僧と女性の僧のこと)の紫衣着用は朝廷(天皇)によって許可されるものでした。

 

 

 

 

という色は、大変に高い地位を示しています。

 

 

 

 

 

 

日本で最初の冠位制度である「冠位十二階」は、憲法十七条とともに日本初の女帝推古天皇の治世を代表する政策の1つです。

 

 

 

 

厩戸王(うまやどおう:奈良時代に聖徳太子という呼び方があらわれる)が積極的に関与した政策として知られています。

 

 

 

 

6種類儒教的徳目(徳・仁・礼・信・義・智)をそれぞれ「大」と「小」に分けた12の組み合わせ(大徳・小徳・大仁…大智・小智)からなっています。

 

 

 

 

冠の色については、・白・の順で、大小はその色の濃淡(のうたん)で表現したとされています。

 

 

 

 

 

話は少し変わって、は英語で「purple」ですが、「purple」には「」という意味のほかに「帝王の・高位の」などのように「身分が高い」という意味でも使用されています。

 

 

 

 

be born in the purple」で、帝王(王侯貴族)の家に生まれる、などと訳されるように、「」という存在は、日本のみならず世界的にも見ても高い地位を表現していることが理解できます😲

 

 

 

 

 

 

話をもとに戻しますが、江戸初期の天皇に後水尾(ごみずのお)天皇という天皇がいます。

 

 

 

 

京都市左京区、比叡山(ひえいざん)の山麓近くに、修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)と呼ばれる山荘があるのをご存知ですか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

上に掲げた写真が修学院離宮です。

 

 

 

 

この修学院離宮を築造した人物こそ、後水尾天皇なのです😊

 

 

 

 

後水尾天皇勅許により、大徳寺沢庵宗彭(たくあん そうほう)らに紫衣着用を認めています。

 

 

 

 

 

 

 

しかし!!

 

 

 

 

 

 

 

江戸幕府は、1627(寛永4)年紫衣着用の勅許無効とし、これに抗議した大徳寺沢庵宗彭らを流罪としたのです。

 

 

 

 

この事件によって、幕府と朝廷の関係は著しく険悪なものになってしまいます😓

 

 

 

 

ではなぜ幕府はこのような行動に出たのでしょうか

 

 

 

 

この続きは次回にしたいと思います。

 

 

 

 

是非、皆さんも考えてみて下さい☻