前回の続きになります。
新井白石はどのような戦略で、短命・幼児と続いた将軍の権威を高めようとしたのかを考えてみましょう❢ということでした。
1709年(宝永6)年、新井白石は第6代将軍徳川家宣に次のように述べた、と言われています。
「将軍家の永続を望むならば、皇室の繁栄を図るべき」と。
読者の皆様は、この言葉をどのように理解されますか❓
そもそも征夷大将軍(将軍)という地位は一体どのようなものなのでしょうか❓
将軍は、武家の棟梁(とうりょう)としての地位を表しています。
将軍は諸大名への軍事指揮権を持ち、全ての武力の頂点に君臨するものです。
では、この将軍としての地位は、誰から授けられたものなのでしょうか❓
授業でこの質問をすると、高校生からはすばやくこう返ってきます😊
「将軍の地位は、天皇より与えられたものです❢」と。
将軍がどんなに武力で天皇を圧倒しようとも、将軍の任命権者である天皇との関係を悪化させてはいけない❢と新井白石は説いたのです。
天皇家との良好な関係の構築こそが、将軍家の安泰のためには不可欠❢
「天皇が上で、将軍は下」なのです。
上下関係を重んじる、儒学者らしい考え方です。
新井白石の政策をみてみます。
①閑院宮家(かんいんのみやけ)を創設。
閑院宮家が創設されるまで、宮家は三家しかありませんでした。
天皇家では、皇位を継承することになっている子以外は出家して寺に入りました。
宮家とは、天皇家が途絶えないようにするための、大切な血族です。
新井白石は宮家を増設してあげることで、天皇家との結びつきを強めたのです。
閑院宮家は、1947(昭和22)年まで存続します。
②徳川家継と八十宮(やそのみや)との婚約。
八十宮とは、霊元(れいげん)天皇の第13番目の子供です。
婚約時、徳川家継6歳😲、八十宮2歳😲でした。
授業ではこの説明をすると高校生は笑うのですが、天皇の子を妻に迎えることで、将軍の権威を高めようとした新井白石の焦りにも似た感情を察することができます。
③衣服の制度
身分の上下・尊卑が強く意識され、衣服の制も整備されて一目で序列が明確になるようにしました。
最高位の将軍権威を高めようと画策したのです❢
つまり将軍個人が偉大なのではなく、将軍の地位そのものが偉大である、ということを示そうとしたのでした。
④朝鮮通信使との関係
朝鮮通信使とは、朝鮮から修好を目的として派遣された外交使節団です。
朝鮮からの国書には、日本の将軍に対して「日本国大君」と書かれていたのですが、これを「日本国王」と改めさせることで、一国を代表する権力者としての将軍の地位向上をはかったのです。
⑤長崎貿易の統制
長崎貿易において、日本からは大量の金銀が輸出されました。
新井白石の試算では、江戸時代の初めから日本が保有する金の25%、銀の75%が海外に流出したとされ、さらには日本の銅までもが貿易によって枯渇する、と考えられました。
以上のような考えから貿易の統制を行ったのですが、実は密貿易が大きな問題となっていました。
将軍が認めていない密貿易の実施は、将軍の権威を著しく低下させます。
金・銀・銅という日本の鉱山資源を守ると同時に、将軍の権威に傷をつける密貿易の取り締まりを徹底することがとても重要な政策でした。
しかし❢です。
新井白石の努力もむなしく、徳川家継は満6歳9か月で、この世を去ってしまったのです😢
新井白石は儒学者として、短命・幼児と続いた将軍の権威を高めようと実に理にかなった政策を打ち出したのだと思われます。
しかし残念だったことは、6代・7代の2代の将軍が、あまりにも早く亡くなってしまったことです。
儒学者新井白石の政治生命をかけた戦略は、大輪の花を咲かせることはなかったのです。
センター試験・大学入試でも問われる新井白石に関する問題。
参考書などにも新井白石の政策に関する記述はありますが、彼の政策を深めさせる考え方は記載されていません。
やはり大切なのは、授業です。
考えさせるアクティブな授業こそが、子供たちの知的好奇心を刺激するのだ、と私は思います。
読者の皆様のご意見なども、お聞かせ頂ければと存じます。