娘子軍の明暗・蝶子の墓②

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 【 6月第1週 】


今年の梅雨入りは早いですね。

とはいうものの、この暑さ、晴れ続きは…あせる

旧暦では梅雨の晴れ間が「皐月晴れ」。

歳三忌のころの爽やかな青空、じゃありません。



さて、「八重の桜」は

綾瀬はるかちゃんが出てこないと

視聴率が上がらないんだそうで、

じゃ、これから会津戦争だから

視聴率も安定する?


小泉孝太郎、慶喜好演ね。


若くてカリスマ性がある将軍らしい。


さすがは兄弟、

若手政治家の期待のホープ、

弟小泉進次郎氏と

話し方や雰囲気似ていて、

かぶっちゃう。

政治家進次郎氏も、実は慶喜タイプかな、

と妙なイメージを持っちゃいそうなのは

私だけ?(^▽^;)


綾野剛クンの容保は

良いわねえ、やっぱり。

今後、ウルウルと美しい涙目で

憔悴してゆく様が見どころね~音譜(!?)


さて、いよいよ、会津での

八重や竹子の活躍がお茶の間に

登場するのも遠くない、

というところで、


先月の記事の続編と参ります。


谷中長明寺にある平田蝶子の墓

の話でしたよね。



歴女同盟



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私は、濃い浅葱の縮緬に、

       薄浅葱の袴にしましょう。(孝子)


私は紫がいいわ。それに濃浅葱の袴かしら?(竹子)


優子はまだ若いのだから明るい色が良いわね、

 蛯茶の袴にしたら?(孝子)


あら、かぶるわね、じゃ、私達は

浅葱じゃなく、(依田まき子)



  ワンピース サンダル 口紅 ネイル 宝石赤


…などと婦女20余人が会して

晴れの日、つまり戦闘当日の死に装束を

チョイスするような会話は、あったでしょうか。


後年、中野優子と依田菊子が涙橋の戦闘時

の格好を思いだして著者平石辧造が作成した表が

「増補・白虎隊娘子軍高齢者の健闘」(昭和12年)

にあります。


でも、別のところで菊子が述懐しているのと

ちょっと違うのですが…。(昭和7年日曜報知170号参照)

まあ、大きくスタイルが違うわけでなし、、

それは寄る年波、というやつ、ここでは

問題にしません。



歴女同盟

水島菊子(旧姓依田)「写真で見る会津戦争」より転載



このブログの表紙の水色、薄浅葱に

似てますけど、そこに竹子の紫縮緬

そして優子の蛯茶母孝子の濃浅葱

想い浮かべて見て下さいませ。

そして依田真紀子・菊子姉妹

鼠絹岡村咲子は黒絹であった、と…。

やはり、女性ですねえ。


最後は美しく、です。


お祭りの娘子軍とはちが~う。


こんな金襴緞子地じゃないし、

鎧も着ていないのよ~。


歴女同盟

これじゃ戦国時代ね。



歴女同盟

これはおまけ。白虎隊?いやいや、市村鉄之助。



歴女同盟

「会津娘子軍奮戦の図」(松石筆)「写真で見る会津戦争」より転載

不鮮明でスミマセン


ところで「娘子軍」という呼称自体は

漢語で、古い文献ほど

彼女らを指す時

「婦女隊」とか「婦女軍」という

記述が多い。

第一、明治18年に

建立された平田蝶子の墓碑だって、

「婦女隊」です。




ちなみに国会図書館のページで

「娘子軍」を検索すると

中国の革命歌劇やバレエ「紅色娘子軍」が

どっとヒットしちゃう。

次に太平洋戦争時の国内での

軍当局のプロパガンダ。

銃後の守りや戦地で働く

婦女を顕彰し、戦意高揚に

用いられてます。

会津の婦女軍は

勇猛忠烈な婦女の鑑である、

という宣伝になったようです。




赤岡大助、門奈治部門下、

夫人梅子の薙刀指南を受けて

腕に覚えのある婦女が自発的に

編成したのが世にいう娘子軍。


中心は江戸で赤岡大助の養女として

武芸の研鑚を積んだ帰国子女、中野竹子。

竹子を隊長に据え、いざというときに集合するのは

城下瓦町東端、と約していた、といいます。


断片的に伝わる中に、

平田蝶子の名はほとんど出てこない。

しかも平岡蝶子、となってます。


『同藩士平岡紋十郎の長女蝶子さんも

赤岡先生の養女となられましたが

姉竹子より一つ年下でありました。

蝶子さんは書はなかなか御上手で、

姉はおもに武芸に心を寄せて居った

様に聞いておりましたした』


(中野優子の述懐・前掲書)


ふ~ん。

蝶子さんは「書は」の「は」、これは

取り立ての格助詞、ですわね。

武芸、作法、書、等赤岡門下で

修めたもののうちの「書は」、

という気分です。その後続に

姉は、武芸に云々と続く…。


中野優子の蝶子に関する

コメント、


蝶子さんは武芸に関しては

姉ほどじゃなかったみたい、という

ニュアンスを私は感じちゃう。


しかし照姫様の薙刀御指南役の

赤岡先生の下、

武芸を納めて憧れの江戸からの

帰国子女の二人竹子も蝶子も

憧れの的ね。


婦女子とて、憎い薩長の奴ばらの

目にモノ見せてくれようぞ!


と20余人が隊を結成した時、


では隊長は竹子様、

副隊長は、蝶子様…、


という事が彼女たちの口に上った

のか?


そんなことはなかった、とするのは中野優子。

いわば自主的に出来ただけで、隊長が誰とも

決めてはいなかった、というのです。



歴女同盟

 中野優子(「写真で見る会津戦争]より転載)


でも、暗黙のうちに

リーダーはやっぱり

江戸帰国子女アイドルだった竹子、よね。


じゃ、私はナンバー2?

少なくとも、蝶子自身の中では

そういう自負はあったことでしょう。


であればこそのあの墓石の碑文、です。


でも…

人はホントに思うようには生きられない。


まして、死にたい時に、思うように死ぬのは

もっと難しい。


涙橋の戦闘前夜、法界寺で中野母娘が

美貌の妹優子を生き恥を晒させるのは忍びない、

戦闘の邪魔にもなるのだから、いっそ、と

姉竹子が殺そうとしたのに、

翌日にはその竹子の首を妹優子が掻くのですから。


その涙橋の戦闘の中に蝶子はいない。


20余人で結成した、といわれるうち

涙橋での戦闘の様子が伝わる6名

(中野こう子、竹子、優子、依田まき子、

菊子、岡村咲子)以外で

その後の戦闘ぶりが伝わる人はいない…。


この6名だって、事前にお願いして衝鋒隊に

参加したわけだもん。

だからこそ血路も開けて

無事に生還でき、

入城も果たせた、と見るべきよね。




「赤岡大助の子竹子、母娘涙橋を渡り、

敵地に入るを見たり。

なかなかの豪の者と聞きしが、

戦闘開始後も、彼等は如何に

戦ひつヽあるや、

今は如何にせしや、などヽ

餘分なことが時々浮かんでくる。

兎に角決心の場所には

女を加ふることは

餘程考へを要す」


という或る老人の言葉が遺されています。


混乱する城下で

頼みの中野母子や他の誓い合ったメンバー

に行きあえずに戦場に孤立したものは?


混乱極める戦場で急に一人二人

放り出されたら、ホントに戦える?


蝶子の御子孫にも

「そのまま東京へ逃げてきた」

と伝わっているそうです。

その直前の事は全く判らない、と。



婦女隊結成の高揚感を

伝説までに持って行けたのは

中野母娘と城下で落ちあえた3人

(依田まき子・菊子姉妹、岡村咲子)

だけだった、という見方も出来ます。



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世が治まっていつ頃か、

平田蝶子は戸田衛門と結婚。

よく会津藩士・戸田衛門、となっていますが

私は不勉強でその出典が何か知りません(^_^;)


確かに戸田姓会津藩士は複数いるので

其係累なのかもしれないわね。


「衛門」、という名は

座りの悪い名前に思われる…

維新後改名して上を取っちゃったか、

(○左)衛門、(□右)衛門とか

要らざる想像までしておりますが。


蝶子御子孫に取材した「幕末漂流」によると

蝶子は衛門との間に一男二女をもうけ、

そのうち娘しげが蝶子の妹吉子の嫁いだ

中村家へ養女として入ったという。

吉夫婦は子に恵まれなかった由。

であるので語っている御子孫というのは

蝶子の孫の当たる方です。




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会津若松の白虎隊記念館に陳列されている

娘子軍平田蝶子の懐剣と花瓶、

妹吉の鏡は昭和60年に中村家から

同館に寄贈されたもの。



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寄贈された花瓶


歴女同盟
ずっと前に記念館で撮った写真を複写したのでイマイチ不鮮明あせる

平田、戸田、中村各家は縁続き。

長明寺の墓地も

蝶子之墓右隣は夫の戸田家、

蝶子の背後に平田家、中村家、と

身内が寄り添うように墓石が

並びます。



長明寺さんのお話では

平田家男女の戒名のある卵型の墓石は

当寺と宗派が異なる真宗系の戒名

なので他寺から改葬された

可能性があり、二人に関しては何の記録も

無い、とありました。


ひょっとして、それは蝶子たちの

両親のお墓なのじゃ?

と思うけれども不明。


父門十郎は、死んだとされる

禁門の変戦死者名簿には見えないし、

慶応年間の藩士名簿には

その名があり、(つまり生きている?)

伏後の謹慎者名簿には無い…?


ネット上で見ただけなので断言はしません


夫の衛門さんは

明治14年42歳で亡くなります。

決して長い結婚生活じゃなかった…

今時の夫婦みたいに、

夫と同じ墓には入りたくないワ、

と云ったとも思えないけど、

4年後あとを追った蝶子は

夫とは横並びの墓石です。


雄弁に、

私はここ、

と存在感ある墓です。

そしてあの碑文。


※ 碑文は先月第1週号をご覧ください。



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沈黙してきた前歴を公言し

世に知らしめようという姉妹の

意志が濃厚に汲み取れる墓です。


義姉竹子はその美貌とともに

娘子軍のヒロインとなり、

会津の誉れと伝説のように

語られるのを、蝶子は東京で

見聞きしていたはず。

涙橋で戦った妹優子、そして依田菊子

も生きているのです。


そして、悲劇的に

取り上げられる

神保修理の妻雪についての

憶測…

これに関しては綱淵謙錠先生の

「戊辰落日」(下)にもページを割いて

おられる稗史野乗の類、です。



川崎紫山が明治27年博文館から

出版した戊辰戦史の中の

第10巻会津戦闘のうち

「烈女難二殉ス」の一文は

維新後から一部では

そういう話が取り沙汰されていた

事の表れでしょう。



歴女同盟





何かを言えば、好奇の目で

見られ、婦女隊として

戦えなかった事への自責の念に

苦しむことになります。

心ない非難もあるでしょう。


唇を噛みしめて堪えねばならない

状況が旧会津藩士すべてにあった時代。

その中でも八重のように戦えた者と

望みながら戦えなかった者との間に

軋轢が生まれていたかもしれない。

複雑な心境に蓋して生きた蝶子、という

気がしてきます。


それを傍から見続けていた姉妹は

墓碑に刻ませています。

蝶子は「深い憂いを遺して逝った」と。



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  右蝶子・左妹吉(「幕末漂流」より転載)





自分の思いと裏腹な人生。

それでも、生きていて良かった、

と蝶子に思う時があって欲しい気がします。




世に名高い娘子軍。



若くして死んで伝説として生きるか、

伝説になりそこねて、

生きながらえて口を閉ざす、か。




そこに選択は、ないのです。



生死の、運命の明暗というものを

考える時間を蝶子之墓はくれます。



歴女同盟

ところでドキドキ

「東海の娘子国」って、な~んだ?

愛地岐阜三重の女子?

新しいアイドルユニット?ちが~うグー

ふ、ふ、ふ。答えは来週ね。


      

     引用文献 平石辧造著 「会津戊辰戦争」

            増補白虎隊及娘子軍高齢者之健闘



              (江翠)