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今回は宝塚と忍熊王、あの白鳥伝承がある中山寺、中山観音のお話です。
北摂の地に紫雲たなびくといわれる中山寺は、聖徳太子の創建によるわが国最初の観音霊場です。第十四代仲哀天皇の先后大中姫(さきのきさきおおなかひめ)、その長子麛坂皇子(かごさかのおうじ)、弟忍熊皇子(おしくまのおうじ)の追善供養のため、あるいは聖徳太子、蘇我馬子との政争に敗れた物部守屋の霊を鎮めるために建立されたと伝わっております。
わたしが読んだ「中山の観音さま」では、守屋の霊に悩まされていた聖徳太子の夢に大中姫が現れて、この地に守屋の霊を鎮めるためのお寺を建立するようにお告げがあった、となっていたので、
それも寺伝の一部と思われます。
その地については、
その昔、第十五代応神天皇の御代、世に大変な疫病が蔓延し、人々は応神天皇との政争に敗れた忍熊皇子(おしくまのおうじ)の祟りであると恐れました。
応神天皇は祟りを鎮めるために忍熊皇子の墳墓へ使者を遣わせたところ、一羽の白鳥が飛び出でました。その白鳥は奥之院の大岩に降り立ち、その大岩より清らかな水が湧き出しました。
それ以来疫病は治まり、忍熊皇子の御霊は厄除神として大岩の窟(いわや)に祀られ、湧き水は諸疫を祓う清水であると信仰を集めたと伝わっております。
後に聖徳太子によって中山寺がひらかれた際、大岩を取り込むように拝殿が建立され、日本で最初の厄神さまをお祀りするようになりました。
とあります。つまり
応神天皇→忍熊王の鎮魂
聖徳太子→物部守屋の鎮魂
ということで、鎮魂された側の大中姫や忍熊王が、守屋に祟られていた聖徳太子を救ったということになります。
文中に忍熊皇子の墳墓とありますが、
境内の白鳥塚古墳がそれといわれています。(寺伝では大仲姫と忍熊王は合葬されていたようです。)
白鳥塚古墳の築造時期は、古墳時代後期-終末期の6世紀末-7世紀初頭頃と推定され、忍熊王とは時代が合いません。むしろ中山寺よりもこのお墓が推古朝の築造ともいえます。
羨道(Wikipediaより)
それとは別に、境内には「安産手水鉢」といわれる石造物があります。
説明板には
今からおよそ1400年前、仲哀天皇の前の皇后大仲姫は、北摂地方の豪族大江氏の出身で、香坂・忍熊の二人の皇子をのこしてなくなり、父君・大江王の住まわれる難波江の近くの大柴谷に葬られました。やがて仲哀天皇は神功皇后を後の后に迎えられました。仲哀天皇が崩御なされた後、神功皇后は胎中の皇子(応神天皇)を立てて、大仲姫の残された二皇子を謀略を巡らし滅ぼしました。香坂皇子は勝利を祈る「狩り占い」で不慮の死を遂げ、一方、忍熊皇子は神功皇后との戦いに敗れて、その身を湖中に投ぜられました。中山寺境内に遺る石棺(舟形石棺)は忍熊王の遺体を納めたものと伝えられ、古墳文化時代の貴重な考古資料です。
中世以降、どんな難産の人も御本尊・十一面観音に祈願をこめて、この手水鉢で身を洗い清めれば、安産うたがいなしとの伝承が生まれ、「安産の手水鉢」と称されるようになりました。
とあり、時代的には舟形石棺の方が4世紀後葉には合いますから、こっちの方が忍熊王の棺の可能性があるかも……。
ここで身を清めてたのはちょっと~💦って思いますが、現在は使われていません(;^_^A
この説明には大仲姫の父、大江王の在所が難波江と書かれていますね。
大阪は当時上町台地以外は海でしたが、
上町台地には大江神社や大江小学校があるので、ここを指すようです。
北摂の豪族というのは、不明です。
大江は物部守屋の誅伐後に建立された、あの四天王寺のある辺りですが、
もともと森之宮に四天王寺が建立された時は、物部守屋の難波の邸宅跡を寺にしたと伝えられ、四天王寺内には今も守屋を祀る祠があるので、
四天王寺も守屋の鎮魂を行っているといえますが、なぜ大中姫が夢に出て守屋の鎮魂を勧めたのか、
大中姫と守屋のつながりを考えてみましょう。
ちょっと地図を見てみます。
中山寺の門前にある阪急電鉄の中山観音駅の一駅西に売布神社駅があり、そこに式内社の売布メフ神社がありますが、
Wikipediaによると
一帯は物部氏一族の若湯坐連(わかゆえのむらじ)が拠点としていた地であり、本来の祭神は若湯坐連の祖である意富売布連(おおめふのむらじ)と見られる。
とあります。
大売布命は、物部氏の祖十千根トオチネ命の弟で、Wikipediaによると後裔氏族の一致から兄弟の大新河命や建新河命と同一人物という説もあるというのですが、
太田亮氏は、天降りした饒速日命から8代目の伊香色雄イカガシコヲ命は近江国伊香郡の物部村、その子大新川命・建新河命は野洲郡の上新川神社と関係深いと指摘されます。
大売布命は彼と兄弟もしくは同一人物ということですね。
また穂積氏の祖の大水口オオミナクチ宿禰を祀る水口神社は滋賀県甲賀市水口町にあり、その祖母も淡海オウミ川枯姫といいます。
4世紀の王権においては、宮都が近江に遷ってますので、それに伴って物部氏も近江に移動したのかもしれません。
大中姫の父大江王は、母も近江の柴野比売ですから、物部氏に近い人物かもしれず、大江王や大中姫の墓所もその縁でこのあたりに定められ、
大中姫も守屋の鎮魂に一役買ったのかもしれません。
一方で、大江王は「古事記」の「倭建命系譜」の人物です。
倭建命系譜(「古事記」)
先是、娶叔父彦人大兄之女大中姫爲妃、生麛坂皇子・忍熊皇子。
とあるので、
とりあえず大江王は景行天皇皇子(仲哀天皇の父日本武尊の異母弟)としておきましょう。
そもそも仲哀天皇がヤマトタケルの子かも確定できませんが( ̄▽ ̄;)
さて、この系譜の始めは倭建命と弟橘比売です。「古事記」には全く影響していないのですが、「日本書紀」では物部氏の同族の穂積氏にとりこまれています。
これは6世紀以降の造作と思われますが、6世紀末の物部守屋の頃にはこの人たちは物部氏一族だという認識があったともいえます。
逆に穂積氏が弟橘媛を取り込んだきっかけは、そういう関係で説明できるかもしれません。
また白鳥陵古墳が丁未の乱で敗れた物部系の人物の墓だとすると、時代的に合います。物部氏に縁のあった大中姫が、その鎮魂を聖徳太子に告げたのでしょうか?
さて、守屋の方はおいといてw
中山寺にこのような伝承が生まれた背景は見えてきたのですが、
それに対して、すぐ近くの甲山信仰圏を神功皇后が押さえ込んでいる状況を考えると、大和政権の忍熊王側に物部氏が付いていたとも考えられますし、
またここが摂津から丹波への入口になるのが気になります。
中山寺のお隣に売布メフ神社がありますが、武庫川に沿って福知山線が走る先に三田市があります。
ここに高売布神社があり、
武庫川を遡ると、丹波篠山市に到達します。ここはもう丹波です。
8世紀に分国されるまでは、丹波・丹後・但馬あるいは若狭までが「大丹波」というべき地域で、4世紀頃は丹後半島を中心とした丹波政権が治めていたと考えられます。
そもそも「丹波」という地名は、丹後国に入ってしまった「丹波郡」「丹波郷」(京都府京丹後市峰山町)がもとになっていました。
そこから「大丹波」一円、さらには
山城南部から大和北縁(奈良市北部)まで、勢力を伸ばしたと考えられていますから、
宝塚は丹波南部から北摂に出る出口になっています。
また、売布メフという名も、宝塚と三田だけでなく、丹後に多く存在します。
前回と同じく天地悠久さんのブログから、ご紹介させていただきます。
こちらは豊受大神といういかにも丹波らしい祭神ですが、女布は天地悠久さんによると
と、丹生=水銀(朱)の産地でもあるようです。実は大売布命から始まる若湯坐の名も、金属を溶かした「湯」から金属精錬集団を連想させ、白鳥伝承自体が鍛冶氏族と関連するという谷川健一氏の指摘もあります。
中山寺の鎮守は市杵島姫で、海神です。
宗像三神ですが、豊受大神を祀る丹波の真名井神社の説明板では、火明ホアカリ神と夫婦神として国生みをしています。
式内社の伊和志津イワシヅ神社には二つの論社があり、祭神は日子坐王と素戔嗚尊ですが、
「鰯津」と見れば、仮に素戔嗚尊を祀る逆瀬川の伊和志津神社がそうだったとすると、ここまで武庫川の水運を使って運んだ海産物を加工して丹波に送ったとも考えられます。
一方、廣田神社の摂社伊和志豆イワシヅ神社は日子坐王ですから、こちらも丹波と有縁でしょう。なお、大阪の大江神社の祭神も豊受大神です。
神戸にも「魚屋路トトヤミチ」という六甲越の道がありますし、有名な日本酒の産地「灘五郷」には近年も丹波篠山の人々が「杜氏」として出稼ぎをしています。
「でかんしょ節」はその事を歌った民謡です。
丹波南部と阪神間の往き来は多かったと思われます。
ですから廣田神社は、忍熊王との戦いにおいて物部氏だけでなく丹波の勢力を抑えるために祀られたのではないでしょうか?
そして忍熊王の叛乱をきっかけに、それまで日子坐王の子孫がいた南山城は、
和珥ワニ氏の勢力範囲になり、沙穂彦のいた春日の地(奈良市)も、その南の物部氏の本貫ともいえる石上までも、和珥氏が侵出していくわけですが、
忍熊王を誅伐したのは、まさに和珥氏の祖である武振熊タケフルクマ宿禰でした。
そして迎える5世紀は、忍熊王を倒した武内宿禰の後裔葛城氏と武振熊宿禰の和珥氏が、王権の中心に座ることになります。
物部氏は八十物部と言われるほど、同族が多く、九州の遠賀川流域にも多くいましたから、外征派というべき神功皇后派に付くものもいて、それなりの勢力を保てたと思いますが、丹波政権はこれ以降大和王権の中枢に戻ることはなかったのだと思われます。
物語にはありませんが、物部氏や丹波政権が忍熊王の背後にいたことは、こういった氏族の動向からも読み取れます。
伝説的な人物が活躍する歌物語にすぎないという捉え方もありますが、ここから王朝交替かと言われるほど王権の構造が変わるのは窺えるので、やはりこの叛乱は「天下分け目」の戦いであったと思います。
このように物部氏がいて、丹波に通じる宝塚を睨んで、廣田神社が祀られたとすると、ここが一番重要なわけです。
神戸に祀られた長田神社・生田神社より、廣田神社の社格が高いのは、そういう理由があるように思います。
この稿についてはずいぶん悩みましたが、天地悠久さんや筑前由紀さんにはいろいろ教えていただきました。ありがとうございます。
近江と物部氏の関係は、卒論当時はヤマトタケルと近江の関係を論じていて、弟橘媛の出自である穂積氏の祖大水口宿禰も近江甲賀郡の水口神社に注目した際に知ったものです。
弟橘媛が穂積氏の娘というのは、今は否定しているのですが、回り道したお陰で役に立った次第(;^_^A
今回は途中どうなるかと思いましたが、4世紀の王権と5世紀の「倭の五王」の時代になんとか橋渡しができたようです。
ここで少しピグパの記事などいれて、気分転換をして、シリーズの次稿はいよいよ応神天皇です❗
またのご訪問をお待ちしております。











