ご訪問ありがとうございます。


最初のはすすっと流しますので、とりあえずお付き合いを。



26年秋8月3日、天皇は物部モノノベノ十千根トオチネノ大連オオムラジに命じて、

「使者を出雲国へ派遣し、その国の神宝を検分しようとしたが、(神宝について)明答できるものがない。そこでそなたが自ら出雲に行って、検分調査してまいれ。」と仰せになった。


そこで十千根大連は神宝を調査して、明らかにしたことを天皇に申し上げたので、(天皇は)神宝を管轄することにした。


ここは出雲の神宝をめぐって、出雲臣振根が誅伐された事後処理だと思われます。



27年秋8月7日、神祇官に命じて、武器を神の供え物にする事を占うと「吉」であった。さっそく(天皇は)弓矢と太刀をあちこちの神社に納めた。更に、神地(神社の御料地)・神戸(神社に奉仕する部民)を定めて、必要な時にこれを祀った。兵器を神社に祀るのはこのときが始まりだと思われる。

是の年、屯倉ミヤケ=天皇の直轄地を来目クメ邑に作った。


これまで銅鐸圏だった近畿には、「武器」を神事に用いることはなかったと思われます。


ところが、北部九州では「銅矛」「銅戈ドウカ」、出雲を含む中国地方では「銅剣」などが祭器として使われていました。


ですから、この頃に大和では、「武器」を祭祀に使うようになったのではないか?

これは北部九州や中国地方の祭祀の方法が、畿内に流れ込んでいたことを示す文です。


大和では、纒向遺跡の出現のあとで、

前方後円墳が生まれ、北部九州の副葬品(鏡剣玉)や吉備発祥の特殊器台が埴輪として採用されます。


この文章は、「纒向珠城宮」の祭祀にふさわしい気がしますが、あまり注目されていないようです(^^;)


こういう前振りをしておいてw


次は卑弥呼と同じ「殉葬」の話です。

ちょっと凄惨なので、閲覧注意⚠️

死体とか嫌な方は日本書紀の文の下へ飛んでください。


28年冬10月5日、天皇の同母弟の倭彦ヤマトヒコ命が薨去された。

11月2日、倭彦命を身狹ムサ(奈良県橿原市見瀬ミセ町)の桃花鳥坂ツキサカに葬った。

その際に、近習であった人々を集めて、全員を生きたままの周りに立たせて埋めたが、数日を経ても死なず、昼も夜も泣きうめいた。ついに死ぬと腐乱し、犬や烏が集まって、それを食べた。


天皇はこの泣きうめく声を聞いて、悲痛な思いをされ、群臣に

「生きているときに気に入られて仕えたといっても、主が死んで殉死させるのは、あまりにも痛々しいではないか。それが古くからの風習といっても、良くないことには従うことはあろうか。

今後は、殉死を止めるように検討しなさい。」と仰せになった。



さあ、倭彦命です。

続ヤマトタケルに「倭彦考」を立てて検証した、あの倭彦です。

(忘れていても大丈夫ですw)


手塚治虫の「火の鳥~ヤマト編」の主人公はヤマトヲグナ、つまりヤマトタケルですが、話のテーマは倭彦命の伝承が使われているので、デジャヴな印象がある方もおられるかもしれません。


こののち垂仁32年に皇后ヒバスヒメが亡くなるのですが、

この時天皇は殉死をやめ、土師氏の祖野見宿禰ノミノスクネの建議を容れて、人型の埴輪を作ったという話につながります。


「検討しておけ。」と言われても4年間放置していた群臣……💧

あ~今の国会みたいだ~(>д<*)ノ


さて、この殉死とか殉葬という風習、

乃木大将のような後追いの自殺ではなく、近習者が墓の周囲に埋められるというものは、他ならぬ「魏志倭人伝」に記録されています。


卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 殉葬者奴婢百餘人

卑弥呼以って死す 大いに塚を作る (直)徑百餘歩(140m?30m説も) 殉葬する者奴婢百餘人


記録が残るのはこのふたつですが、問題は

それだけ多くの人が埋められたという、考古学的な痕跡が今のところ発見されてないことです。


卑弥呼の墓はもちろんわかりませんし、倭彦命の墓に比定されている桝山古墳は

そもそも宮内庁の管理下で立入禁止❗

元は方墳なのを、倭彦命の墓に比定した際に前方後円墳に直してあるので原状回復できるかもありーの、

そもそもあれは5世紀のもので時代が違いーので、証拠になりそうもないです(^^;)


Wikipediaより

ただ「古事記」「日本書紀」「風土記」などの文献にも、これ以外に殉葬の記事はないということと、

それなりに信憑性のある「魏志倭人伝」に記述があるということは、


殉葬が邪馬台国と三輪王権のみに共通するということを表しているように思います。


そう考えると、倭彦命以前には大和には殉葬がなく、この話も初めてリアルに見た人が多くてめっちゃビビってる感じですよね(>_<)


「古事記」では


次に倭日子命。この王の時に、始めて陵に人垣を立てき。


とあるように、これが最初で最後の殉葬の記述なのです。


ところで垂仁天皇も倭彦命も(「入彦」と言われた)崇神天皇の子の世代です。


もし、崇神天皇が入婿として邪馬台国から銅鐸圏であった三輪地域に来た人物だとすると、

崇神天皇と同じ頃に亡くなった人は大和の風習に沿うように葬り、


垂仁朝になって、邪馬台国風に殉葬を復活させようとしたが、

あまりの凄惨さに殉葬を知らなかった天皇も群臣もびっくりして、やめようとしたのではないか、というストーリーを考えられます。


それほど「日本書紀」においては殉葬は特殊なのです。


さて、この倭彦命ですが、系譜を見ますと


父 崇神天皇 (御間城入彦尊)  

母 御間城姫命(皇后)


同母の兄弟姉妹

①活目入彦五十狹茅イクメイリヒコイサチ天皇(垂仁天皇)

②彦五十狹茅ヒコイサチ命(垂仁天皇と重複?)

③国方姫クニカタヒメ命

④千々衝倭姫チヂツクヤマトヒメ命

⑤倭彦ヤマトヒコ命

⑥五十日鶴彦イカツルヒコ命


というポジションです。


この②の彦五十茅は「古事記」になく、

①の活目入彦五十茅(垂仁天皇)の名前の一部で、わたしは同一人物と見ています(ФωФ)


それと共に注目されるのは、①の活目入彦以外は、三輪王権の別称として学会でも使われる「イリ王朝」(提唱者は上田正昭氏、吉井巌氏)なのに、

イリがついてない‼️(o゚Д゚ノ)ノ


では他の皇子女を見ると、崇神天皇の皇子女の場合、


妃:遠津年魚眼眼妙媛トオツアユマクワシヒメ(紀伊)

①豊城入彦トヨキノイリビコ命

②豊鍬入姫トヨスキイリビメ命

妃:尾張大海媛オワリノオオアマヒメ(大和葛城)

③大杵オオイリキ命

④八坂入彦ヤサカノイリビコ命

⑤渟名城入姫ヌナキノイリビメ命

⑥十市瓊入姫トオチニノイリビメ命


と見事に「入イリ」がついています。


また、対になっている

御間城ミマキ入彦(崇神天皇)と皇后御間城ミマキ姫を並べると、

御間城姫には「入イリ」がありません。


ここから「入」の意味を考えると、

やはりこれは「他所から入ってきた」の「入」であったことが分かります。


つまりミマキの姫君に婿入りしたのが、

「ミマキ入り彦」で、


御間城姫の子は、元のミマキの血を引く子であるので「入」はつかない。


一方、御間城入彦(崇神天皇)の連れ子は

他所から入ってきた子なので「入」をつけたのではないでしょうか?

そこは九州からきて、大和の大物主神=大国主命の娘さん(あるいは大国主命の子、事代主神の娘とも)と結婚した、神武天皇とよく似ています。


よく似てるどころか、崇神天皇の本拠地「磯城瑞垣宮」は、大物主神を祀る三輪大社のすぐ近くなので、

たぶん同じ話を別々に語るレベルで一致しているのです。


ということは、彦五十茅命は天皇(当時は王)になったので、「他所から来た崇神天皇の後継者」として「活目入」を名乗ったもので、本来は彦五十茅命であり、


その兄弟姉妹も、正統なミマキの子であったので、「入」がついてないのだと考えてよいでしょう。


ですから倭彦命は、前の王権の血を引く、垂仁天皇に次ぐ高位の皇子であったことが推定できるのです。


では、殉葬以外の事績が語られない倭彦命ですが、その本当の姿を次回は検証してみようと思います。


「倭彦考」と重複しますが、

またのご訪問をお待ちしております。