雨模様の炊き出しの日、初めてお目にかかったシスターは、手が足りないと思われるところへ移動なさっては、にこやかに、テキパキと立ち働かれます。そのご様子は、まるで「奉献生活」の歩く姿のように思われました。
「あら、私が悪かったわ。ごめんなさい」
お料理の間、二、三度おっしゃったでしょうか。間違ったことをなさったわけではないでしょうにと不思議に思いながら、母国語ではないから、あるいは信徒への思いやりかしら、とお聞きしておりました。
お料理を会場へ運ぶ準備ができ、皆で腰を下ろしたところへ同じ国からいらした神学生が、お菓子をどうぞ、と外国語の包みを差し出されました。
「買ってきてくれたの?」、「近くで売っているの?」
等々の問いに頷く神学生に、
「お母さんが送ってくれたのね」
と日本語を教えていらっしゃるシスターは正されます。
シスターの語学力は素晴らしいものでした。先ほど不思議にお聞きしたことばは、信徒には優しく、奉献生活を送る仲間には厳しく、そしてご自身には一番厳しくていらっしゃる顕れなのでしょう…
再びシスターにお会いしたのは蒸し暑い日でした。
軽装で参加する私たちと違ってシスターは、長袖の修道服の上に割烹着をきちんとお付けです。
「暑いですね」
皆の声に、シスターは「煉獄の練習だと思っているの」と仰います。
煉獄とは天国へ迎えられる前に罪の浄化を受ける場所とお聞きします。
「シスターが直接天国へ行かれなかったら私たちは…」
友のことばに神様と人々への奉仕に生涯を捧げられるシスターへの敬愛を感じます。
その時です、シスターは「直接行けないと思うのよ、私は恵まれ過ぎているのですから」と仰いました。
家庭や私有財産を持つことを放棄し、海外への異動も、自ら選んだのではない修道者との共同生活も任務も受け入れ、求められる場所で仕えるために、地上を旅してゆかれる奉献生活者。語学習得の他にもご苦労はおありだったでしょう。
しかしそれらをすべて「恵まれ過ぎている」と仰るご信仰。主への感謝、生への愛。
信仰とは自由になっていく道だとお聞きします。
おひとりの司祭様との出逢いから、曇りや雨の日から自由になれたように、シスターとの出逢いによって、またひとつ自由になれたのでしょう。罪深く、とても天国へ直行できるとは思えない自らに、煉獄の練習だと、暑いと「不満を抱く愚かさ」から。
そう反省する折には、以来ずっとシスターの「恵まれ過ぎているのですから」という美しいおことばが寄り添ってくださいます。
万軍の主よ、あなたに依り頼む人は いかに幸いなことでしょう。
(詩編84:13)
「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
(ヨハネによる福音書8: 31~32)