社会保障とは何か

 

 かつて、日本では、社会保険料は少なく、代わりに、累進所得税が多い時代がありました。その頃は、社会保険料の大部分は累進所得税に統合されていたと言うことが出来ます。

 意図的に、どの歳入がどの歳出の財源であるかということは考える必要はなく、歳入の全般が歳出の全般と釣り合っているかどうかを考える必要もありません。

 歳出が歳入より多ければインフレ要因となるかも知れないというだけの話です。インフレ要因となるかならないかについても、歳出と歳入のバランスは決定的なものではありません。

 だから、「社会保険料を廃止せよ」と言っても「社会保険料全額累進所得税方式にせよ」と言っても同じことです。

 なぜなら、医療費や年金の支払いは無償で行われるべきものであり、そのためにインフレ対策が必要であれば、法人税および所得税累進課税を増税し、社会保険料を廃止しても、全額累進所得税方式社会保険料に変更しても、まったく同様にインフレ対策の一つにすぎないからです。

 あらゆる国において、そして、日本国においても、憲法は、国民が安心して生きて生活することは、国民が国家に対して有する基本的権利であると定めています。これを生存権および基本的人権と言います。

 憲法に従って、国家が国民に対して行う生存権(生活の安定や健康の確保など社会福祉の全てを含む)の実現を目的とする制度を社会保障制度といいます。

 社会保障は、社会福祉と同義であり、生活困窮者、障害者に対する支援や補助だけでなく、国民全体の生活の格差の解決、および、生活の豊かさを実現する目的を持ちます。

 近代国家は国民に服従するものですから、国民は国家に対して、国民の生存権を守り、そして、国民の生存権を社会の中に制度として確立することを命令することが出来ます

 国民の国家に対する権利である基本的人権は、国家の国民に対する義務である社会保障制度を通じて実現します。

 こうした国家と国民の関係はしばしば理解されません。なぜなら、国家はもともと皇帝などの支配者が人民を支配する手段だったからです。

 しかし、国が民主化され、普通選挙が実施されるようになると、国家は国民の代表部となり、国家は国民自らの幸福を追及する手段なりました。

 しかし、今、国民の中にもいろいろな勢力があり、国家を解体し、国際金融資本の草刈り場にしようとする勢力もあり、国家をどのように操るかは、幅広い選択肢の中で揺れ動いています

 しかし、それでも、なお、人間の普遍的欲望を制御する必然において、社会保障は、国家の存在する唯一の目的であるということが出来ます。

 したがって、国家の施行する税制、財政政策、金融政策、および、国家主権を国外の脅威から守るための安全保障は、すなわち、この社会保障を守るための手段になります。

 この目的と手段の関係は重要です。そうでなければ、税制、財政政策、金融政策、安全保障は、その主を失い、何のために存在するものか判らなくなるからです。

 基本的人権は、国民が歴史を通じて獲得して来たものだと言われていますが、いまや、国民が国家の主人となったからには、すでに、社会保障もまた国民のものになっており、改めて、誰からも獲得する必要はないものとなっています。

 ところが、他国ではいざ知らず、いまだに、日本においては、国民は社会保障を十分獲得出来ているとは言えません。

 現在の日本では、社会保障制度は、児童福祉、母子寡婦福祉、高齢者福祉、障害者福祉などの「社会福祉」、生活保護などの「公的扶助」、健康保険(医療保険)、労災保険(労災補償保険)、雇用保険、年金保険、介護保険などの「社会保険制度」の3つに取りまとめられているとされています。

 しかし、前者の2つの「社会福祉」および「公的扶助」と、後者の「社会保険制度」では、その性質が乖離しています。

 前者の財源は税収または通貨発行権であり、給付だけの制度で、正真正銘の福祉制度であることに対して、後者は保険料という利用料金が必要であることになっているからです。不足分を国庫負担とすることでかろうじて社会福祉の一つに数えられているような有様です。

 ところが、最近の自民党政府の下では、採算性が叫ばれておりその本質が「社会保険という保険ビジネスにすぎないものに変えられようとしています。

 つまり、自民党政府は社会保険制度社会保障の中に入れたまま、ちゃっかり、黒字を出すためのビジネスにてしまっているのです。

 利用料金が発生して、料金が支払われないときは給付が止められるようなものは社会保障制度とは言いません。

 しかも、この利用料金は弱者の負担の大きさから、結果的に受益者本人が負担するようなものになっています。つまり、所得累進的に負担するものではなく、高所得者は所得に対して負担額が頭打ちになるよう配慮されているので、一人当たりの負担額に余り違いはなく、しかも、一人いくらで課金される人頭税的なものさえなっているのです。

 「社会保険制度」が社会保障の一部というのなら、その中の二つのである健康保険制度と年金保険制度は、他のあらゆる行政サービスと同様に、税収または通貨発行権によって運営され、弱者が無償の給付を受けるのでなければなりません。

 ただし、税収はインフレ抑止の手段にすぎませんから、その税金の負担は法人税と所得累進課税によって行われるべきであることはこれまでも言って来たとおりです。

 税金はインフレ抑止の手段にすぎないからには、どこから取っても良いのですが、税金には格差是正と弱者への所得再分配という役割があります。

 だから、税金を低所得者や貧困層から取ると、国民の格差の解決が出来なくなるだけでなく、ケインズの限界消費性向の理論にしたがって、経済成長も出来なくなり、国民生活は貧しくなります。

 ところが、現代日本の社会保険制度では、低所得者ほど負担割合が高い逆進的な保険料を支払わされ、当然ながら、国民はそのために貧困化しています。さらに、医療費の自己負担率は3割負担にまで引き上げられ、老齢年金は毎年削られて行っています。

 このようにして、「社会保険制度」は、強制加入であるにも関わらず、経営が黒字化することで、低所得者や貧困層から身ぐるみを剥がされるほどの悪質なものに変化しているのです。

 社会保険料の高さは、消費税、固定資産税と共に、国民貧困化の三大悪税の一つとなっています。

 消費税は付加価値の中から捻出することになり、経営者は不完全雇用下における圧倒的な優位によって、そのしわ寄せを労働者に押し付け、賃金を下げます。消費税によって国民貧困化政策われています

 固定資産税(建物固定資産税)の重税化は、地方の地価を押し下げ、国民から担保力を奪い、日本では中小企業融資は長期的融資は行われなくなっています。そのため、地方の中小企業経営者、熟練労働者は没落し、中間層が壊滅しています。

 そして、いまや、社会保障の主要な柱である健康保険制度と年金保険制度は、黒字経営となっているので、税収による補助すら無くな、完全に保険料という利用料金による運営に転換されてしまい、いつ民営化されてもおかしくないようなものになっています。

 今はまだ社会保険は国家の運営の下にあり、国民の大事なライフラインの一つですから、社会保険料が払えないからと言って、まさか、病気になったときに路上に捨て去られるということにはならないだろうとは思います。

 それは、飲み水である水道と同様のライフラインです。まさか、水道料が払えないからといって、水道が止められるようなことはないでしょう。

 水道が止められれば、その家庭の家族はみんな死んでしまいます。いくらなんでも、当局はそんなことをやらないし、財政の主人たる国民もそんなことは望んでいません。

 そういうことからも、ライフラインも社会保障の一つですから、利用料金という考え方は奇妙なのです。

 ゆえに、社会保険料は税金として扱われるべきものであり、税金として扱われるということはインフレ対策のため以外のものでしかなく、払えなければ金品などに対して差し押さえを受けたとしても、当然ながら、必ず水道と同様に医療保険や年金の供給は続けられるべきであり、いかなる国民の命も助けられなければならないのです。

 

 

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