皆様こんにちは。

 

さてタイトルの件ですが

 

人に何かを言われたり

 

されたときに

 

自分が落ち込む・・・・

 

これ少し見方を変えると

悪意に負けない強さが

身に付きますよ。

 
っていうお話をしたいと思います。
 
 
この喩えが良いか悪いかは
 
「論点違い」なので
 
最初にご了承いただきたいのですが
 
「いじめた側はいじめたことを
 
忘れている。でもいじめられた側は覚えてる」
 
っていう言葉、よく聞きますよね。
 
 
これね、たぶん、本当のことだと思います。
 
わたしは子供の頃10年近くにわたって
 
陰湿ないじめに遭ってたので
 
ほぼやられたことすべて
 
日時まで鮮明に覚えてます。
 
 
一番古い記憶では
 
5歳になったばかりの節分の日。
 
大阪の幼稚園から
 
福岡の幼稚園に
 
転園して数週間たち
 
わたしの大阪弁をからかうことを
 
きっかけに
 
一部の子どもたちが
 
わたしをいじめるようになったのです。
 
節分の日と覚えているのは
 
お弁当の時間
 
いじめっ子が
 
ちかづいてきて
 
「鬼は外!」といいながら
 
わたしにブロックだの積み木だのを
 
ぶつけ始めたからです。
 
 
そしていじめっ子の一人が
 
母が好き嫌いの多いわたしのために
 
一生懸命こさえてくれたお弁当箱を取り上げて
 
お弁当箱ごと外に投げるという仕打ちに
 
出やがりました。
 
泣きながらお弁当箱の中身を
 
詰めなおすわたし。
 
しかも泣きながら担任の姿を
 
探すと、あろうことか
 
そのときの担任教師は
 
泣いているわたしから
 
目をそらし
 
いじめを見て見ぬふりをしたのです!
 
 
オトナは困っている子供を
 
助けてくれる存在ではないのか?
 
子どもながらに「絶望」を感じました。
 
 
あれから47年経った今
 
犯人の名前=フジ●ア●ラ、ヤマ●タカ●キ
 
担任のク●教師=モリ●ネキョウ●
 
 
こっちはこうして
 
フルネームまで覚えているのに
 
やつらがわたしの存在を覚えているかというと
 
1万円かけてもいいけど
 
絶対に覚えてないだろうなと思います。
 
 
あ、これ、いじめの啓蒙(けいもう)について
 
書きたい記事じゃないので
 
さらに冷静に読んでくださいね。
 
 
わたしはいわゆる物心というものが
 
付き始めて間もない
 
5歳から思春期の15歳までの間
 
あまりにも罵倒されて
 
あまりにも酷い仕打ちに遭ってきたせいか
 
普通の人より痛みに対して
 
鈍感になった部分はあります。
 
 
なので人の言葉があまり意味を持たないこと。
 
わたしがいくら傷ついたからといって
 
相手は何も覚えてもいないこと
 
仮に何かうっすらと覚えていたとしても
 
家具を買い替えたこと以下の記憶でしか
 
ないであろうことを
 
小さい頃に
 
嫌というほど学んだのです。
 
 
中学生になるかならないかの頃には
 
すでに人の心というものは
 
ころころ変わるし
 
人間というものは
 
オトナも子供も悪意を
 
あまりにも容易に
 
罪悪感のかけらもなく
 
平気でむき出しにする生きものである
 
ということを悟っていた気がします。
 
 
で、そういう育ち方をしたせいか
 
良いか悪いかはわかりませんが
 
人の悪意には慣れっこなんですね。
 
 
 
だからいちいち
 
悪意を感じ取っては
 
ぎゃあぎゃあ騒いだり
 
傷ついたのひっぱったの
 
言ってても身が持たないでしょ?
 
と思うわけです。
 
 
もちろん、みんなが皆
 
わたしのようではないので
 
わたしみたいな考え方になれ!
 
と言っているのではありません。
 
 
ただ、悪意というものはそんな
 
特別なものじゃなく
 
誰でも持ってるものだし
 
条件がそろえばそれをむき出しにします。
 
 
もちろん悪意をむき出しにするタイプの
 
人たちは
 
悪意という野蛮な感情
 
それ自体をコントロールできる知性も
 
品性も持ち合わせない
 
ただのコントロールができない人
 
野蛮人、品性下劣な
 
しょうもない人間なのだと
 
知っておくのは
 
悪い事ではないと思います。
 
 
もっというと
 
そんなやつらが放った
 
コントロールできていない
 
汚い感情をぶつけられたぐらいで
 
 
あの人のあの言葉で傷ついた、
 
インナーチャイルドが
 
顔を出したとかそういうことを言って
 
大騒ぎするのではなく
 
 
品性下劣な野蛮人に
 
たまたま当たってしまった
 
軽い接触事故だからしゃあないわ。
 
 
みたいなとらえ方をしたほうが
 
悪意に強くなりますし
 
そんな品性下劣なお馬鹿さんたちに
 
傷つけられたなんて
 
プライドが許しませんことよ。
 
ぐらいのマインドがあると
 
素敵だし粋なんじゃないかと思うわけです。
 
 
わたしの敬愛している山田詠美さんの小説で
 
これ、いじめをテーマに扱ったものですが
 
悪意の扱い方がとても素敵に書いてあります。
 
わたしもこれと似たようなマインドで
 
いじめっ子たちの存在を心の中で
 
虫に変えて潰す
 
イメージトレーニングをしていました(怖
 
 
父に「どうやって生霊とばしたらいいの?」
 
って相談をしてこっぴどく叱られたり真顔あせるあせる
 
 
念のために書いておきますが
 
これいじめられることを
 
薦めているんじゃないですよ!
 
 
そうじゃなくて悪意をどう扱うかで
 
人間の品性が決まるということを
 
言いたかったのです。
 
 
悪意をむきだしにする野生の猿みたいな
 
おバカさんもアレですが
 
そういうしょうもないやつらが
 
投げつけてくる悪意に触れたぐらいで
 
いちいちぎゃあぎゃあ騒ぐ方も
 
わたしは美しくないと思いますからね。
 
だって騒いだって誰も助けてくれません。
 
自分を助けてくれるのは
 
いつでも自分です。
 
このぐらいのマインドでいたほうが
 
人に過剰な期待をせずに済み
 
逆に人に期待というエネルギーを
 
ぶつけないほうが
 
なぜか大切にされるし
 
愛されるようにもなるのです。
 
 
 

令和時代、野生の猿以下の知能しか

 

持ち合わせていない

 

下劣な人間も増殖する予感ですが

 

そんなしょうもないやつらが

 

放った悪意を

 

どう躱(かわ)すかで

 

生き方のスキルが上がります!!

 

 

悪意を華麗にスルーして

 

令和時代、美しく生きましょう♥

 

それではどなたさまも
 
素敵な午後を♡♡♡