過去を振り返った時に色んな後悔とか、

 

あの時こうしとけばよかったとか、ああしとけばよかったとか、

 

もっと挑戦しとけばよかったとか、そういった後悔みたいなものはあるけど、

 

過食嘔吐をしてきた長年の過去を振り返ると、

 

過食嘔吐をしてきたことに後悔の念はあるか、と自問自答してみたら、

 

後悔はない、

 

というのが率直な思いだった。

 

結構自分でも意外な答えだなーって思ったんだけど、

 

過食嘔吐のことを後悔、というのは何か違うというか、

 

後悔とか後悔してない、とかそんな言葉とはちょっと違うような気がして。

 

過食嘔吐は私が今まで生きてきた中である意味欠かせないもので、

 

過食嘔吐があることで心を保つことができて生きてこれたって言うのがある。

 

過食嘔吐以外にすがるものも頼るものも、私の人生の中では自分で見つけられることができなかったから、

 

もし、過食嘔吐がなかったら生きてこれなかったかも、というももあるし、

 

実際今ある辛いこと、辛いこと以外にも楽しいこともあった、嬉しいと感じることもあった、

 

幸せと感じることもあった、

 

それらは全て過食嘔吐してきて自分を何とか保てて生きていくことができたからこその感じることのできた感情だから、

 

もし、過食嘔吐なくて自分が消えてしまっていたら味わうことのできなかったものだったと思う。

 

だからといって過食嘔吐に感謝、という感謝という言葉もなんだか違うような気もするので過食嘔吐に感謝するという言葉も使いたくはないのだけど、

 

今、自分がこうして生きているのは過食嘔吐があったから。

 

過食嘔吐は辛い、消えたくなるくらい辛いししんどい、

 

何度も過食嘔吐を恨んだこともあったし、過食嘔吐さえなければ幸せなのに、

 

とまで過食嘔吐のことを憎んだこともあった。

 

でもだからといって、後悔はしていない。

 

それは『私』という自分の人生を生きて、創って歩んで、ここまで来てるのは過食嘔吐をしてきたというのは絶対に否定できないし、覆すことはできないから。

 

ある意味、自分の一部。

 

だから、自分、という人生においては『過食嘔吐をしてきた過去』というのは認めてるもので、

 

そこは悔いはないし、悲観してもない。

 

今も考えていて、

 

ああ、過食嘔吐をしてきた過去があったんだな、

 

それで生きてこれたとこも沢山あったな、

 

ってそう思うだけ。

 

過食嘔吐によって失ったものは確かに沢山ある、

 

でも、逆に得たものも沢山ある。

 

失ったものばかりに目を向けるのではなく、得たものに目を向けて生きて行くのがこれからのモットーでもある。


餃子はいつも手作りで好きな具材、味付けにしてる。