第十六回文学フリマin大阪を過ぎても [下] | 山本清風のリハビログ
 猫であることの恍惚と不安、ふたつ我にあり。

 とまれ昭和の日。わたしの眼下で山本清風はどろどろに熟睡していた、無理からぬことだった。大阪文学フリマを終えて対人関係の焼けついたところに新作を書き、それから三日間は手芸のイベントで炭化したペルソナにさらに火を加えて昨日、超文学フリマを終えてきたのだから。しかも目覚めれば彼の細君の友人がホームパーティーのために来客する手筈になっている。

 いまはただ眠れ、山本清風。しかしながら風化するまえに大阪文学フリマについてはログを残しておかねばならない。わたしは彼を起こさぬようそっとUSBケーブルを接続すると、リムーバブル領域を確認した。ふむ、ちょっち遅かったようだ。

 大阪文学フリマ関係の記憶は断片化しながらもあちこちに保存されていたが、その多くが上書きされていたのである。それでもわたしはサルベージを決意して、大阪らしきファイルをつぎつぎに展開してゆく。その作業はなかなかに困難で、彼の札幌の友人の顔があり「これは違うな」と判断すると、ほかの場面から判断するにどうやらその友人は実際大阪にきていたりする。

 彼の大阪文学フリマは淡路島地震から始まった。それが象徴しているように大阪文学フリマそのものが想定外なイベントだったのだろう、普段面とむかってほめることはないけれども、このときばかりはわたしも爪をひいて、彼のうなされている顔面をそっと撫でた。



 それでは抽出された幾つかの断片をみてみよう。

 まず彼の視点、右隣には屋代秀樹(文藝同人「LOL」)の姿があり持ち帰った荷物から察するに、彼にとって文学フリマの推しメンである木嶋章夫の新作が掲載された合同誌を購入したようだ。そして左隣には色彩が目につき刺さる、渋澤怜(@RayShibusawa)のブースがあってひっきりなしに話しかけられている。店番などもしてややこころは濁ったところがあるけれども、途中たまごパンをもらっているので彼は彼女に感謝せねばならないだろう。

 あるいは「見本誌みました!」といって彼の瞳をみつめる女性がある。彼には文学フリマでいつもひとりだけこのように見本誌を読んで本をもとめにくる女性があり、しかし彼女たちはすべてべつべつの人間で、色素が薄く、色白だ。彼はいつも「これはもう結婚することでしか感謝の気持ちを表明できない」といつも考えるのだが、既婚であったし彼女たちが求めるものは文学であって別段、婚姻ではない。

 流石の彼もそれがわかるので、すると彼は上手く反応しかねてしまう。彼になり代わりわたしが云うなら率直に感謝であるしこれからも読んでほしい、ということになるだろうか。そのようなシンプルな感情を持つことが彼はあまりないので、きっと混乱してしまうのだ。おろかものめ。

 またも彼の瞳を射抜くのは文学フリマの一部界隈を賑やかした篤里という少女である。彼女は「文学フリマにはナンパしにきたんですよ」と云ったため彼は「じゃあ私をナンパしてみてよ」と答えた。酷い会話である。ガールズバーにゆけば野口英世を幾人か要するところ彼はなんとも大胆で、大阪文フリにおける異常な心理状態がうかがえる。

 しかし彼女は冴えたもので売られた喧嘩は買わんとばかり「試されたら試し返せ」のビックリマン的反射神経で、彼の瞳を挑戦的な微笑みでもって射抜いたのである。若い女性とはなんと悪魔的であることか。当然彼もこのことは鮮明に記憶していた。

 というのも彼は彼女くらいの年恰好の少女が登場する小説を書いていたから、参考になるとかんがえたのであり、してみれば彼はやはり金銭を支払うべきであった。その体験が小説に活かされることでまごうことなき〝文学的瞬間〟となるのだから、いまからでも遅くはない。口座に振り込んでみてはどうだろう。

 また彼はいくつも不義理をした。接客が極まったとはいえツイッター上で会話していた、かつとんたろう(左隣のラスプーチン)に挨拶にいけなかったこと。非公式の佐藤(佐藤)が疲労困憊して早退するのをなにも云えずにただ見送ったこと。秋山真琴(雲上回廊)がもう描写もはばかられるほどに疲れすぎていたこと。(それは眼鏡のせいかも知れない、と彼は思ったが週末だけ秋山が眼鏡をすると知るのは後の話である)

 彼の後悔は日常的であったが、もし逢えたら人間椅子(バンド)の話をしようと思っていた犬尾春陽と彼の札幌の友人の連れあいが友人であったことを知り、犬尾の交友の広さに驚いているのか友人が札幌にいないことを驚いているのかなにを驚いているのかがわからなくなり、というかむしろまったく驚いておらず、つまり鈍化していたためそこにさしたる会話もなかった。だから彼の後悔とは、全体的なものである。



 さて、断片化された記憶から類推される大阪文学フリマを総括してみよう。まず「いつもの文フリと同程度売れた」という多数の意見から、大阪開催は文フリナンバリングタイトルに相応しい内容となっただろう。対象とする〝読書家〟あるいは〝同人志望者〟を照射してみせたことは成功以外のなにものでもない。

 今後は照射された市場をいかに維持・拡大してゆくかが問題であり、非ナンバリングの大阪開催に必要なのは遠征組の多かったことからたとえば、開催日を東京とずらすこと(半年間で二回ならば七月/二月に開催する、など)や運営陣による地域サークルの掘り起しなど、これが課題だろう。

 これは大掴みした課題で瑣末に触れればたちまち、それは文学フリマ自体の課題を語ることになる。成功を感じたのは純文学ジャンルを中心とした、どちらかといえばコンサバティブな読者を求める層である。彼らは失われつつある〝文学〟という装甲を維持したいと考えており、違う地方で東京なみの成果を挙げたことはすなわち、装甲が二倍になったことを意味している。彼らの文学は大阪の地で延命された。

 ひるがえってプログレッシブな読者を求める層、これは先に述べてしまえば超文学フリマに希望を見出した層だが、懐古としての文学ではなくたとえば越境する他ジャンルのなかに文学を見出す彼らにとって、地方開催というのはそのまま開催地を変えただけにすぎない。しかしそれは否定的に発言されるわけではなく「いつも通りだったなあ」というふうに発音される。

 そのためこれからの大阪文学フリマは新興イベントとして、いずれにも枝葉を伸ばせる可能性に満ちた赤子である。生まれたてでまだ湯気がたちのぼっている。わたしとしてはナンバリングの文学フリマについてもそうだが〝文学を定義することなく〟コンサバティブもプログレッシブも貪欲に、両方内包すべきだとかんがえる。このことについては超文フリのところでいま一度触れることになるだろう。



 そして、カートをひいて歩いている光景。「でんぱ組は最上もが推し」と云った吉永動機(BLANK MAGAZINE)に彼が「どうみても一番かわいい子は脊髄反射で応援できない。グループ自体の繁栄をかんがえてしまうし、自分が応援しなくても誰かが応援するだろうとかんがえてしまう」と云うと、吉永動機は〝パフュームはのっち推し〟宣言したあとで、

「もう自分に嘘はつかない」

 と云ったので彼は爆笑した。



 それからやはりカートをひいている光景があり、そこでは栗山真太朗(少年憧憬社)とドワネルくんが人ごみにもまれていて、どうやらこれは大阪の記憶ではない、超文フリの記憶と混濁しているのだ。とわたしはサルベージ作業を諦めてノートパソコンを閉じると再び彼の寝顔をみつめた。そして、空腹を感じたのでカリカリを補充してもらうべく清風を叩き起こした。



$山本清風のリハビログ-文学フリマin大阪






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