2012-07-29 00:00:07

灯籠大臣/平重盛

テーマ:武将・豪族・海賊
【平 重盛(たいら の しげもり)
保延四(1138)年ー治承三年閏七月二十九日(1179年9月2日)/享年42歳

「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」

萬年山 小松寺 平重盛
萬年山 小松寺 平重盛 posted by (C)深藤龍眼

萬年山 小松寺 平重盛
萬年山 小松寺 平重盛 posted by (C)深藤龍眼

平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。
保元・平治の乱で若き武将として父清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身とともに累進し、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。
嫡男ではあったが継室の時子の子である宗盛や徳子とは母が異なり有力な外戚の庇護はなく、室が藤原成親の妹・経子であったため、成親失脚後は一門のなかでは孤立気味であった。
政治的には平氏一門の中で最も後白河法皇に近い立場にあった。清盛の後継者として期待されながらも、清盛と後白河法皇の対立では有効な対策をとることができないまま、父に先立ち病没した。
六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿ないし小松内大臣とも、またその邸宅に48の灯籠(灯篭)を建てていたことから灯籠大臣とも称された。

改名:重盛、浄蓮
別名:小松内大臣、小松殿、灯籠大臣
墓所:茨城県東茨城郡 小松寺など
官位:正二位、内大臣
主君:鳥羽院→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇、および後白河院
氏族:桓武平氏維衡流(伊勢平氏)
父母:平清盛、高階基章娘
兄弟:重盛、基盛、宗盛、知盛、重衡、徳子、盛子、完子、知度、清房、他
妻 :正室:藤原経子、藤原親盛娘、他
子 :維盛、資盛、清経、有盛、師盛、忠房、宗実



同世代人の重盛に対する評価
「かくの如きの時、必ず使を送られ殊に芳心(親切な心)を致されるなり/山槐記」
「イミジク心ウルハシク/愚管抄」
「武勇時輩にすぐると雖も、心懆甚だ穏やかなり/百錬抄」


久安六(1150)年十二月、鳥羽法皇の蔵人に補される。(13歳)
久安七(1151)年正月、従五位下になる。(14歳)
久寿二(1155)年七月二十二日、中務少輔(18歳)

保元元(1156)年、保元の乱に父に従って参戦。『兵範記』には中務少輔・重盛の名が記されている。清盛の軍勢は源為朝との戦闘で大きな被害を出し、形勢不利と見た清盛は撤退を指示した。この時に重盛は父の制止を振り切って、為朝と戦うため出陣しようとするなど血気盛んなところを見せた。保元の乱は清盛の属す天皇方の勝利に終わり、(19歳)

保元二(1157)年正月、重盛はその功績により19歳で従五位上に昇叙した。同年十月二十二日に大内裏が再建され、清盛は仁寿殿を造営した。父から造営の賞を譲られた重盛は、正五位下となった。(20歳)

保元三(1158)年八月、清盛は知行国を安芸から遠江に移す。自らは大宰大弐であったため、重盛が代わりに遠江守となった。(21歳)

平治元(1159)年十二月九日、平治の乱の勃発の時、清盛は熊野参詣のため紀伊にいた。『平治物語』では重盛は動揺する父を励ましたとするが、『愚管抄』によれば清盛と一緒にいたのは基盛・宗盛と侍15人で、重盛は同道していない。京都に戻った清盛は二条天皇を内裏から六波羅に脱出させ、信頼・義朝の追討宣旨を受ける。重盛は叔父・頼盛とともに出陣する。この戦いで重盛は「年号は平治、都は平安、我らは平氏、三つ同じ(平)だ、ならば敵を平らげよう」と味方の士気を鼓舞し、源義平と御所の右近の橘・左近の桜の間で激戦を繰り広げ、堀河の合戦では馬を射られながらも材木の上に立ち上がって新たな馬に乗り換えるなど獅子奮迅の活躍をする。もっとも『愚管抄』によれば義朝はすぐに内裏を出撃して六波羅に迫ったとあるので、内裏で戦闘が行われたかどうかは定かでなく、話を盛り上げるための創作の可能性もある。
この合戦で信頼に与していた成親は助命されているが、成親の妹・経子を妻にしていた重盛の嘆願が背景にあったと推測される。乱の終結後に合戦の恩賞の除目があり、重盛は勲功賞として伊予守に任じられる。(22歳)

平治二(1160)年が明けてすぐに従四位下となり、左馬頭も兼任する。(23歳)

応保元(1161)年九月、後白河と平滋子の間に生まれた皇子憲仁親王(高倉天皇)を皇太子にしようとする陰謀が発覚した。この事件では時忠・教盛・成親らが二条天皇によって解官されるが、清盛は同調せず二条を支援したため、その信任を確固たるものにした。重盛の昇進も目覚ましく、(24歳)

応保二(1162)年正月に正四位下、十月に右兵衛督。(25歳)

応保三(1163)年正月には26歳の若さで、従三位に叙せられ公卿となった。清盛は二条の親政を支える一方で後白河に対しても配慮を怠らず、後白河のために蓮華王院を造営した。(26歳)

長寛二(1164)年二月、父から造営の賞を譲られた重盛は、正三位に叙された。九月、清盛は一門の繁栄を祈願して、厳島神社に装飾経33巻(平家納経)を寄進するが、重盛も一門・家人とともに製作に携わった。(27歳)

長寛三(1165)年四月、二条天皇は病に倒れた。重態となった二条天皇は五月に重盛を参議に任じ、六月に皇子・順仁に譲位、院庁を開設して執事別当に重盛を指名するなど最期まで執念を見せるが、七月に崩御した。六条天皇を平氏と摂関家が支える体制が成立し、(28歳)

永万二(1166)年四月、左兵衛督、七月には権中納言・右衛門督となった。しかし天皇が幼少のため、政局は著しく不安定だった。七月に基実が薨去すると、六条天皇の政権は瓦解する。平氏が二条親政派から離脱して後白河上皇を支持したことにより、十月に憲仁親王の立太子が実現した。憲仁親王の乳母には重盛の室・経子と藤原邦綱の女・綱子が選ばれ、重盛は乳父(めのと)になった。十二月には清盛の後任として春宮大夫となる。(29歳)

仁安二(1167)年二月には、権大納言となり帯剣を許された。清盛は五月十七日に太政大臣を辞任するが、それに先立つ五月十日、重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨が下された(『兵範記』)。これにより、重盛は国家的軍事・警察権を正式に委任され、清盛の後継者としての地位を名実ともに確立した。さらに重盛は丹後・越前を知行国として、経済的にも一門の中で優位にあった。
後継者となった重盛だが健康を害したらしく、「日来所労」「昨今不快」により十二月の東宮の御書始を欠席し、大乗会の上卿も交替する。(30歳)

仁安三(1168)年二月、清盛が病のため出家。政情不安を危惧した後白河は憲仁を即位させ(高倉天皇)、体制の安定を図った。重盛は体調不良が続いたらしく、十二月に権大納言を辞任する。出家後の清盛は福原に退隠し、六波羅には重盛が残って一門の統率にあたった。(31歳)

嘉応元(1169)年十一月の八十嶋祭では、重盛室の経子が勅使役となって重盛の六波羅邸から出立し、後白河と滋子が七条殿の桟敷で行列を見送っている。十二月二十三日、延暦寺の大衆が、重盛の義兄で尾張の知行国主・藤原成親の流罪を求めて強訴を起こした(嘉応の強訴)。大衆は内裏を取り囲んで気勢を上げ、検非違使別当・時忠は官兵の派遣など早急な対策をとることを進言する。この時、重盛は官兵300騎を率いて宗盛・頼盛とともに待機していた。公卿の議定では慎重論が大勢を占め、重盛も後白河の三度に渡る出動命令を拒否したため、やむを得ず後白河院は成親の流罪を認めた。
しかし、すぐに巻き返しに転じて成親を検非違使別当に任命、時忠は解任され身代わりに配流とされてしまう。後白河院と延暦寺の対立は悪化の一途をたどり、事態を憂慮した清盛は正月十四日、重盛を福原に呼び寄せて状況を報告させた。このように重盛は一門の代表とはいえ、重要案件については清盛の判断が優先していて、自らの意思・行動はかなり制約されていた。結局、成親の解官で延暦寺は引き下がり事態は沈静化する。同年四月、重盛は権大納言に復帰し、成親も検非違使別当に返り咲いた。(32歳)

嘉応二(1170)年七月三日、法勝寺八講の初日、摂政・松殿基房の従者が参詣途中で出会った平資盛の車の無礼をとがめて恥辱を与えた。その後、重盛の子の車と知った基房は震え上がり、ただちに下手人を重盛のもとに引き渡して謝罪するが、重盛は申し出を拒絶した。基房は報復を恐れて、しばらく外出を止める。ほとぼりが冷めたと思われた十月二十一日、天皇の元服定のため基房が参内する途中、重盛の武者が基房の従者を襲い乱暴を働いた。
この事件のため、天皇の元服定は延引となってしまう。重盛は天皇の乳父の立場にあり、その行為は許されるものではなかった。重盛を高く評価する慈円も、さすがにこの事件に関しては「不可思議ノ事ヲ一ツシタリシナリ」(『愚管抄』)と困惑している。この事件の影響からか、十二月に重盛は再び権大納言を辞任する。(33歳)

承安元(1171)年正月三日の天皇元服の儀式に、重盛は欠席した。この儀式の進行に携わったのは、建春門院の兄弟・親宗と中納言に昇進していた異母弟・宗盛だった。宗盛の台頭は、重盛の後継者としての地位を脅かすものとなる。十二月、清盛の女・徳子が高倉天皇に入内したのを機に、重盛は権大納言に復帰する。復帰後の重盛は、朝廷の公事を精力的に勤めた。(34歳)

承安三(1173)年四月、法住寺殿の萱御所の火災ではいち早く駆けつけて消火活動にあたり、後白河から称えられた(『建春門院中納言日記』)。同年冬の南都大衆の強訴に対しては、院宣により家人・平貞能を宇治に派遣して防備に当たらせた。(36歳)

承安四(1174)年七月、重盛は空席となっていた右近衛大将に任じられる。この任官に対して清盛の喜びは大きく、二十一日の拝賀の儀式には邦綱以下公卿10人、殿上人27人が付き従った。(37歳)

安元元(1175)年、父・清盛が守護神として祀った厳島神社参詣の途次、旅の安全を祈願するため船を渡守の地(鞆の浦)に立ち寄った。重盛は西方の正覚山静観寺の七堂伽藍、空高くそびえ立つ五重の塔の偉容に打たれ、この地に滞在。静観寺境内(当時で創建370年を超えていた)に自作護身の阿弥陀仏像を安置して一宇を建立し、その際記念に松の木を植えた。重盛は「もし、この松が天に伸びれば平家は栄え、地に這えば平家は衰退するだろう」と言い残す。(樹齢850年の偉容を誇っていたが、昭和二十九年の台風によって倒伏した。)(38歳)

安元二(1176)年正月、後白河の50歳の賀には重盛も一門の筆頭として出席、平氏と後白河法皇の蜜月ぶりを示した。五月に重盛は改めて海賊追討宣旨を受ける。しかし、七月に建春門院が薨去したことで平氏と後白河法皇の対立はしだいに顕在化することになる。(39歳)

安元三(1177)年、正月には重盛が左近衛大将、宗盛が右近衛大将となり、両大将を平氏が独占する。三月には藤原師長が太政大臣となったことで空席となった内大臣に任じられる。後白河法皇も福原を訪れるなど、表面的には何事もなく時は過ぎていった。しかし、四月になると延暦寺が加賀守・藤原師高の流罪を要求して強訴を起こす。発端は延暦寺の末寺・白山と現地の目代の紛争で、中央に波及して院と延暦寺の全面衝突となった。この時、官兵を率いた重盛は閑院内裏を警護して大衆と対峙していたが、家人の放った矢が神輿の当たるという不祥事を引き起こした。高倉天皇は法住寺殿に避難し、後白河は大衆を実力で排除しようとするが、京都が戦場になる可能性があると反対の声が上がり、実際に出動する平氏一門も、延暦寺との衝突には極めて消極的な態度をとったために断念、大衆の要求を受諾して師高の配流・神輿を射た重盛の家人の投獄を行った。
その後、「太郎焼亡」と呼ばれる大火が発生し、太極殿・関白以下13人の公卿の邸宅が焼失する。その中には重盛の邸宅も含まれていた。五月、後白河は延暦寺に報復を決意すると、天台座主・明雲を解任、所領を没収して伊豆への配流を命じた。しかし明雲の身柄は大衆に奪還されたため、後白河は重盛・宗盛を呼び出して延暦寺への攻撃を命じた。重盛らは「清盛の指示がなければ動かない」と返答したため、話にならないと見た後白河法皇は、清盛を福原から呼び出した。清盛も出兵には消極的だったが後白河法皇は強硬姿勢を崩さず、やむを得ず出兵を承諾した。
六月一日、多田行綱が平氏打倒の陰謀を密告したことで状況は激変した。この事件では重盛の義兄・成親も関与していて、重盛は捕らえられた成親に「命だけは助かるようにする」と励ましたという(『愚管抄』)。清盛の怒りは凄まじく、成親は備前へ配流され関係者も一網打尽に検挙された(鹿ケ谷の陰謀)。重盛は左大将を辞任して抗議の姿勢を見せ、配流された成親に密かに衣類を送るなど必死の努力をするが、七月に成親は殺害された。
重盛は嫡子・維盛の妻に成親の女を迎えるなど、成親と親密な関係だった。重盛は成親を、後白河に対する交渉窓口・パイプ役として重視し、後白河法皇に平氏の要望を取り次ぐ役割を期待していた。その成親が平氏打倒の首謀者であったことで、重盛の面目は丸潰れとなり政治的地位を失墜させることになった。この事件を機に重盛は無気力となり、政治の表舞台にはほとんど姿を見せなくなる。(40歳)

治承二(1178)年二月には内大臣の辞任を申し出るが、中宮・徳子が懐妊したため、中宮の兄とされていた重盛の辞任は認められなかった。六月、重盛は着帯の儀式に出席する。徳子は十一月に皇子を出産(安徳天皇)、皇子は翌月には言仁親王として立太子した。(41歳)

治承三(1179)年二月、重盛は東宮の百日(ももか)の祝に出席するが、病により家に籠もるようになる。三月には熊野に参詣して後世のことを祈ったという。やがて病状が悪化したため、五月二十五日に出家した。法名は浄蓮。六月二十一日には後白河法皇が、六波羅の小松殿を訪れて重盛を見舞った。時を同じくして清盛の娘・盛子も亡くなっているが、後白河法皇は盛子の相続していた摂関家領を自らの管理下に置き、平氏への圧力を強めていた。七月二十九日、42歳で死去した。

死因については、胃潰瘍、背中にできた腫瘍、脚気などの説がある。十月、仁安元(1166)年以来の重盛の知行国・越前が、後白河法皇によって没収された。翌月、清盛と後白河法皇の関係は完全に破綻、治承三年の政変によって後白河院政は停止される。
重盛の死は、清盛と後白河法皇の対立を抑えていた最後の歯止めが失われたことを意味し、両者の同盟関係を完全に崩壊させることになった。また、勤皇思想が広まった江戸時代には、後白河を庇って父清盛を諌め、そのため命をすり減らしたという伝承から、万里小路藤房、楠木正成と共に「日本三忠臣」として高く評価されていた。


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