校門と所長との再会 | プチ現実逃避カメラ

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私の成長記録です

順造門(1834年)


はーい、説明興味のない人はすっ飛ばしてね↓
小浜藩酒井家は藩祖忠勝以来学問に厚く、幕府が官学として保護していた朱子学の儒者を多く招聘していた。
 元文5年(1740)7代忠用は、仁斉学派の儒官に代え、藩士山口春水の推薦する崎門学派・望楠軒2代講主の小野鶴山を招聘した。明和7年(1770)鶴山死去の後、4代講主の墨山を招聘し、安永3年(1774)正月、墨山を教授とし、学則を定めて藩学問所(藩校)順造館を開校した。この校名は漢籍の「道に順つて士を造る」から定められている。
 順造館は、その後享和2年(1802)に増改築されたが、この正門は天保5年(1834)の建築されたものである。本門は切妻造・本瓦葺の薬医門で、主要部分を欅材とする虚飾のない素朴な造りである。築後の歳月に加え幾度かの移築と補修で当初の面影を大きく変じているが、今もなお両翼の袖塀に遺る華やかな海鼠(なまこ)塀(へい)、大棟両端の鬼瓦に輝く若狭剣片喰の酒井家家紋は、藩学問所唯一の建築遺構としての風格と激動の歴史を物語る歴史資料として価値を有している。



この門の奥の建物は母校の高校ですね。
こんな歴史のある校門があったとは知ってはいたけど、知っていただけ(笑)
普段は至って普通の学校にある校門をくぐっているし、そっちが駅に近いから、わざわざ開かずの校門をしげしげと眺めたりしません。



実は大人になってからも、母校の近くに勤務していたんです。
母校から歩いて50メートルほど
所長の住居(左)とその手前数台の駐車スペースを残して、勤務していた税理士事務所は跡形もなくなりました。


所長もこの世を去り、無住の家屋。


近くの鉄工所はそのまんま
この雰囲気がなんとも好きだったんですよ。


立派なお住まい、蔵と塀もそのまんま


少し足をのばしてみることに

小さな溝にカニがたくさんいました。
雨上がりだと、たくさん出て来てくれますね。



そして梅田雲浜先生誕生地の石碑を発見。
なんとなくここまで来たのはもしかして


看板の説明を読もうとしたのももしかして


何かに導かれたのかも知れません。




看板寄贈主のお名前
それは忘れる事のないお名前。


ご無沙汰をしました。
所長、その節は大変お世話になりました。

私が20代前半の時に既に70代でした。
大正生まれのアキラさん。
ハイカラなお名前。
ほんとは色々面白エピソードが浮かぶんだけどね、内緒です。

その頃の事を思い出したわ
毎朝の『所是』の唱和とか
ヘビースモーカーの職員の目の前のまっ黄色になったカーテンと窓とか
移動は全てタクシーだった事とか
確定申告時期に毎晩深夜まで仕事して3時を過ぎた日、親から事務所に心配の電話が入ったこととか
字の書きすぎでペンだこが出来てたこととか
顧問先で怖いおっちゃんに怒鳴られたり
女子の先輩にいびられたり

書けないようなヤバい出来事もたくさん
きりのない思い出が浮かびました。


懐かしさでいっぱいになった、ほんのちょっとの散策でした。