山手通りへ抜ける手前で、ラインの受信音が鳴った。R恵からだった。「さっき、ウチの近所を走ってたでしょ?」車を一時停止させすぐに返信。「どこかで見てたの?」「うん。白い車に見覚えあったから」そうか、目白駅のあの人混みの中に、きっとR恵がいたのだ。
「ウチに帰るとこ?」「ウン、そう」「洗車して帰れば?車、かわいそう!」お願い、というポーズの、号泣スタンプ。
そういえば、最近洗車していない。それどころか、『この子』の顔をちゃんと見てもいなかった。日々の雑用に追われるうちに、この頃は『この子』のことを、パートナーというよりただの移動手段の「金属の塊」として扱っていたのではないか。
ごめんね、こんなに汚してしまって・・・子供に泥だらけのスニーカーを履かせている親の心境になった。R恵の言う通り、今これからなら洗車に行ける。混んでいなければ、30分もあればこの子にシャワーを浴びさせてあげられるだろう。
それなら、と、助手席に置いたバッグを片手でまさぐる。・・・あれ?無い。メイクポーチが無い。忘れて出てしまったことに気がついた。バックミラーで自分の顔を確認してみると、アイブロウは汗で滲み、グロスはほぼ落ちているという無惨な有様。
問題はそれだけじゃない。近所だからいいや、と、ショートパンツを履いてしまっていた。ピチピチしているか否か、と問われたら、正解を知るのが恐ろしいはしたない太ももをむき出しにしているのだ。崩れたメイクに、ボーダーラインすれすれのショートパンツという装い。けれどこの子にシャワーを浴びさせてあげるなら、今日しかチャンスは無い。
私が、無防備にガソリンスタンドに侵入することにためらいを感じてしまうのは、そこが「男の園」と呼んでも過言では無い空間だからだ。私にとってそこは、男性用化粧室と同じようなもの。店員の方はほぼ男性、愛車の仕上がりを店内で待っているのもほぼ男性。女っ気ゼロ、女子力不要、パスポートを持たずして入国できる「男子一色」の希少な「男子主義国」なのだ。
洗車をお願いして、こっそりと指先でショートパンツの裾を伸ばしてから車を降り、洗車を待つための店内に足を踏み入れると、そこはガソリンと煙草の入り交じった匂いが満ちていた。正直に言うならば、この匂いがどちらかというと得意ではないけれど、そんなことを顔に出したりはしないつもり。ここではこの匂いが当たり前なのだから。
嫌ならこなければいい。オンナにとってこの場所は、つまりアウェー。ピンクも無し。シナモンシュガーも無し。ミントもダマスカスローズも無くて当たり前、無いからこそのガソリンスタンド、なのだ。
一瞥したところ、目に入ってくるのは荒くてゴツい自体ばかり。マガジンラックには、「こち亀」「ベストカー」に「サファリ」といったオトナ女性には見慣れない雑誌。そしてさっきから誰かが背後で睨んでいるような気がして仕方がない。鋭い視線で私をねらっているのは一体誰なの?恐る恐る振り返ると、ゴルゴ13が冷たい銃先をこちらに向けていた。
40代とおぼしき男性がジロリとこちらを見てからスポニチに視線を戻した。「何しに来たんだ?」とでも言いたかったとしたら、それは何故?ワタシがオンナだから?だらしなくメイクを直していないから?それとも・・・ピチピチしていないから?
コンコン、と、心では丁重にノックしているつもり。ちょっと入ってもいいですか?「何の用?」なんて冷たく言わないで。ご覧の通りピチピチじゃあないけれど、「うちの子」がシャワーを浴び終えるまで、こちらの発展途上国にお邪魔してもいいですか?