さばき(裁判) | 777のクリスチャンへの警告と聖書 蛇のように聡く、鳩のように無垢であれ

777のクリスチャンへの警告と聖書 蛇のように聡く、鳩のように無垢であれ

今の時代を知って欲しい クリスチャン専用のブログ
終末におけるクリスチャンへの裁き、悔い改め、聖書の喩えをおもに書いています。
お勧めメッセージです。
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申命記1:12
私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう。
1:13
あなたがたは、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。彼らを、あなたがたのかしらとして立てよう。」
1:14
すると、あなたがたは私に答えて、「あなたが、しようと言われることは良い」と言った。
1:15
そこで私は、あなたがたの部族のかしらで、知恵があり、経験のある者たちを取り、彼らをあなたがたの上に置き、かしらとした。千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長、また、あなたがたの部族のつかさである。
1:16
またそのとき、私はあなたがたのさばきつかさたちに命じて言った。「あなたがたの身内の者たちの間の事をよく聞きなさい。ある人と身内の者たちとの間、また在留異国人との間を正しくさばきなさい。
1:17
さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものである。あなたがたにとってむずかしすぎる事は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」

ここを見ていこうと思います

申命記1:12
私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう。
1:13
あなたがたは、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。彼らを、あなたがたのかしらとして立てよう。」
1:14
すると、あなたがたは私に答えて、「あなたが、しようと言われることは良い」と言った。




新共同訳では「裁判人」についての事柄です、教会、会衆、同胞にも裁判人を置くように神の命令があります
世の裁判人では試験、免許が必要です・・・が教会にはそれがありません、必要なのは上記の箇所と下の箇所にありますね。




1:15そこで私は、あなたがたの部族のかしらで、知恵があり、経験のある者たちを取り、彼らをあなたがたの上に置き、かしらとした。千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長、また、あなたがたの部族のつかさである。


うちの教会十人だけだから必要ない 否 十人の長とも書かれてあります、規模に関係なく必ずいなければならないのです。

あなたがたの部族のかしらで、知恵があり、経験のある者

でなければならないのです、裁判人、裁く人がいないと教会の秩序・安定はないのです問題が蔓延してる?裁く人を立てていないのではないですか。

1:16
またそのとき、私はあなたがたのさばきつかさたちに命じて言った。「あなたがたの身内の者たちの間の事をよく聞きなさい。ある人と身内の者たちとの間、また在留異国人との間を正しくさばきなさい。t


身内とはイスラエルの民に属してるクリスチャン、在留異国人とはここでは、エジプトの地にまだ属している、罪の奴隷になって、出エジプト、モーセにつくバプテスマをまだ受けていない、クリスチャンではない人として見ています。

クリスチャンとクリスチャン同士の訴えを裁判、判決を聖書的にするのですが、さらにクリスチャンとそうでない人との教会内での訴えも正しくさばかなくてはなりません。

クリスチャンといえば身内に甘く外に厳しい人がいるようですが?聖書はそう書かれておらず、クリスチャンとの間に訴えのあるクリスチャンでない人も訴えは正しくさばかなくてはなりません。




またこれが必要です


1:17
さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものである。あなたがたにとってむずかしすぎる事は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」


役職 クリスチャン歴 老若男女 年齢 などありますが、聖書の↑のみが正解なのです




私、つまりモーセのところに持っていく場合もあります、なぜモーセのところなのかというとモーセは特別だったからです


民数記12: 8
彼とは、わたしは口と口とで語り、明らかに語って、なぞで話すことはしない。彼はまた、主の姿を仰ぎ見ている。なぜ、あなたがたは、わたしのしもべモーセを恐れずに非難するのか。」





さて、裁き人が裁きをしない、裁判官が裁きをしない これは何か?

世の中ではそういう国は正義が実行されず滅ぶサインとしてみることができませんか

聖書もそうであり、(裁判官とやもめの喩え)裁判人(裁判人の型であるクリスチャン)が裁きを行わない様は新約時代の神の国(教会)の終わる終末の時期に関して起こる事であります。

幾ら訴えても取り上げてくれない、正しく裁いてくれない、本来教会ではあってはならないことですが、「波風経たないように、余計な面倒、労力をそれに使いたくない」そういう指導者が多く現れることがわかります。



エレミヤ書5:28
彼らは、肥えて、つややかになり、悪事に進み、さばきについては、みなしごのためにさばいて幸いを見させず、貧しい者たちの権利を弁護しない。

22: 3
主はこう仰せられる。公義と正義を行ない、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。在留異国人、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また罪のない者の血をこの所に流してはならない。  

出エジプト記22:22
すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。
22:23
もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。
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総括すると今の教会の現状はさばき人の数が適正でなく、さばきが行われていない というように私は見ています、そうでなければこんな風にならなかったでしょうに・・・