そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」
また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。
すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
ここを見ていこうと思います前の箇所はマリヤとマルタのところで、マルタがしていた事よりイエス様の教えを座って聞く事が神の御心であると言う箇所です。
この箇所も続いていますから、パン御言葉の事と見れます
そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。
私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。
糧とは何か?勿論霊的な意味では聖書の事です、今は物質的な糧が重要視されているようですが神に贖われたクリスチャンは霊的なことにも特に感謝すべきと考えています。
私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」
また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
いきなりパンの話?ちゃんと順序だって書かれており、聖書、御言葉のことだと理解できますね。
友とは友なるイエスとして(ヨハネによる福音書)イエス様のことです。
さて、パンの求め方、神様へのパン御言葉の求め方が書かれています。
友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。
旅の途中の友人?勿論このようなクリスチャンの事です
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。
それがわかると
聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。
良い行ないによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良いわざに務め励んだ人としなさい。
かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、
さらに
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、
わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』
彼らは相談して、その金で陶器師の畑を買い、旅人たちの墓地にした。
また
私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。
私は地では旅人です。あなたの仰せを私に隠さないでください。
そういうわけで旅人にあったりしなくとも、旅人のようなクリスチャンの事を総じて、旅人とたとえられているのです。
また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。
すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』
あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
ここで一つわかるような感じがします、つまり自分の事ではなくて他のクリスチャンの事、「自分だけよければよい」そういうことではなくて他のクリスチャンのパンの事、何ゆえ聖書を読むのかというと、他のクリスチャンに教えたり、諭したりする事、聖書で満腹にすること。 そのような目的で神様にパンを求めると神様がパンを与えてくださる そんな感じがします。
不思議な事だろうかな・・・そんな風に感じますが聖書ではそういう人間が色々出てきますね、自分ではなく周りの事を気遣う助けるイエス様もそうです。
そしてクリスチャンもそうなるように聖書に書かれています。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
「自分だけ満腹になろう 他の旅人(クリスチャン)の飢えは気にしない」 そうではなく、自分の事に固執せず隣人の飢えを気にかけ聖書を読み神様からパンを貸していただきましょう。