ヨブ記のたとえ | 777のクリスチャンへの警告と聖書 蛇のように聡く、鳩のように無垢であれ

777のクリスチャンへの警告と聖書 蛇のように聡く、鳩のように無垢であれ

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終末におけるクリスチャンへの裁き、悔い改め、聖書の喩えをおもに書いています。
お勧めメッセージです。
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前回の続きです

29:15
私は盲人の目となり、足なえの足となった。





ヨハネによる福音書9:39
そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
9:40
パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41
イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」



足なえは 信仰によって、御霊によって歩むなどの事柄の意味合いがたとえであるようです 

霊的な盲目の事としてもたとえで見えてきます

上記の聖書箇所も救い主が目の前にいるのに見つけれないのです。




そのようなクリスチャンをサポート手助けするクリスチャンとしてのヨブ

29:16 私は貧しい者の父であり、見知らぬ者の訴訟を調べてやった。

黙示録: 3:17
あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。


今では霊的に豊かになって、人を後ろに触れないで倒したり、金粉出したりしていル人々がいますがそうではなく、霊的な意味合いで貧しい人を助けているクリスチャンの型 しかしながら主のみ前ではそれは本物の聖霊(みくにを受け継ぐ手付け金の価値無しとみなされてしまう霊的に富んでいる人)

29:17
私はまた、不正をする者のあごを砕き、その歯の間から獲物を引き抜いた。


羊は弱い存在ですが、そのようなクリスチャンを助ける そんな意味合いがあると思います

アモス書: 3:12
主はこう仰せられる。「羊飼いが、雄獅子の口から、二本の足、あるいは耳たぶを取り返すように、サマリヤに住んでいるイスラエルの子らは、寝台の隅やダマスコの長いすから救い出される。」


29:18
そこで私は考えた。私は私の巣とともに息絶えるが、不死鳥のように、私は日をふやそう。


なんかクリスチャン的ですよね、発想が。

29:19
私の根は水に向かって根を張り、夜露が私の枝に宿ろう。


前回の箇所にもあったとおり水は霊をあらわしていて、聖霊の事に関してたとえでも書かれていることが解ります。



29:20
私の栄光は私とともに新しくなり、私の弓は私の手で次々に矢を放つ。
29:21
人々は、私に聞き入って待ち、私の意見にも黙っていた。
29:22
私が言ったあとでも言い返さず、私の話は彼らの上に降り注いだ。



ここでも 降り注ぐとあり聖霊・雨に関する事柄、つまりここでは(22節)みことばに関する事柄だという事がわかります、御言葉と雨の関連性がわかります、

29:23
彼らは雨を待つように私を待ち、後の雨を待つように彼らは口を大きくあけて待った。


ここと似ています。

ヤコブ書5: 7
こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
5: 8
あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。


そして後の雨とはゼカリヤ10章


10: 1
後の雨の時に、主に雨を求めよ。主はいなびかりを造り、大雨を人々に与え、野の草をすべての人に下さる。
10: 2
テラフィムはつまらないことをしゃべり、占い師は偽りを見、夢見る者はむなしいことを語り、むなしい慰めを与えた。それゆえ、人々は羊のようにさまよい、羊飼いがいないので悩む。
10: 3
わたしの怒りは羊飼いたちに向かって燃える。わたしは雄やぎを罰しよう。万軍の主はご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場のすばらしい馬のようにされる。


羊飼いに向かって神の怒りは燃える事が書かれており、わたしの羊を飼いなさい等でクリスチャン(羊)を飼う牧者、今で言う牧師に神の怒りが燃える事がわかります、羊(クリスチャン)をさまよわせたこと迷わせた事が書かれている事がわかりますね。



29:24
私が彼らにほほえみかけても、彼らはそれを信じることができなかった。私の顔の光はかげらなかった。


よくわからない

顔の光 他の聖書箇所を参照 古い契約とは旧約聖書で覆いがかかっているのですが、覆いと取り除いた状態が 顔に光がある そういう状態と認識しています。

2コリント 3:13
そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。
3:14
しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。
3:15
かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
3:16
しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。


29:24
私が彼らにほほえみかけても、彼らはそれを信じることができなかった。私の顔の光はかげらなかった。


つまり聖書に覆いをかけているような状態ではなく、覆いを取って語っていた事が解ります、信じられなくても語るのです。


たとえばヨセフがキリストの型であるとか、出エジプトは奴隷の状態から自由の身になったクリスチャンをさしているとか、荒野の岩とはキリストのことであるとか・・・ヨブ記は終末の苦難の時代のクリスチャンの事とか。


29:25
私は彼らの道を選んでやり、首長として座に着いた。また、王として軍勢とともに住まい、しかも、嘆く者を慰める者のようであった。


さてそんなヨブですが一変して状況が変わります。

30: 1
しかし今は、私よりも若い者たちが、私をあざ笑う。彼らの父は、私が軽く見て、私の群れの番犬とともにいさせたものだ。


つまり 新約→→→ヨブより若い者たちの出現→ヨブの苦しみ→神の救い(新約で言うとキリストの再臨)

うまく表現できないのですがこんな感じだと思ってます。

キリストの再臨前には、古い教会をあざ笑うもの嘲る者が出てくるという事を覚えてください

ユダ書:18
彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現われる。」
使徒言行録2:13
しかし、ほかに「彼らは甘いぶどう酒に酔っているのだ。」と言ってあざける者たちもいた。
13:41
『見よ。あざける者たち。驚け。そして滅びよ。わたしはおまえたちの時代に一つのことをする。それは、おまえたちに、どんなに説明しても、とうてい信じられないほどのことである。』」
2ペテロ: 3: 3
まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、


あざける者に心当たりはありませんか?私はありますよ



幾つもそんな箇所があるのですが今回はこれで終わりにします。

エレミヤの部屋では聖書の覆いをとったメッセージがあります是非たとえの理解に進んでください。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/6810/