ベテル(神の家 教会)は無に帰す。 アモス5:1~7 | 777のクリスチャンへの警告と聖書 蛇のように聡く、鳩のように無垢であれ

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終末におけるクリスチャンへの裁き、悔い改め、聖書の喩えをおもに書いています。
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アモス 5: 1

イスラエルの家よ。聞け。私があなたがたについて哀歌を唱えるこのことばを。

5: 2

「おとめイスラエルは倒れて、二度と起き上がれない。彼女はおのれの地に投げ倒されて、これを起こしてくれる者もいない。」

5: 3

まことに、神である主はこう仰せられる。「イスラエルの家で、千人を出征させていた町には百人が残り、百人を出征させていた町には十人が残ろう。」

5: 4

まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ。


5:5
ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕え移され、ベテルは無に帰するからだ。」
5: 6

主を求めて生きよ。さもないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下り、これを焼き尽くし、ベテルのためにこれを消す者がいなくなる。

5: 7

彼らは公義を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。


こんばんは、イスラエルがクリスチャンの「たとえ」でもあると解るとすごく目が開けます(たとえで見ますね)

自分が思ってる事を書きます

~エレミヤの部屋NO59から転載~

それは神はイスラエルの民とクリスチャンを似た者として表現していることです。それは以下のようです。
ー野性のオリーブ、元木のオリーブ
ー12部族と12弟子
ーヤコブの70人の親族と主の70人の弟子
ーどちらもアブラハムの子孫
ー旧約の神の民にも新約の神の民であるクリスチャンにもぶどうの木、オリーブの木といった同じ表現が使用されている。

何故神はこの両者を似た者として書かれたのでしょうか。それは、我々に一つのことに気付かせるためです。イスラエルへの預言はそのまま霊的イスラエルー クリスチャンへの預言だということです。前者に起きたことは後者にも起きるのです。それを悟らせるためにこのようにこの二つのものはいつも似た形で表現されているのです。~転載終わり~ (イスラエルの民=クリスチャン


神の家とは生ける神の教会のことであり 1テモテ3:15 

イスラエル の 家   クリスチャン の 教会


アモス 5: 1

イスラエルの家よ。聞け。私があなたがたについて哀歌を唱えるこのことばを。


なんと主の日を書いているアモス書が解ります

 
5: 2

「おとめイスラエルは倒れて、二度と起き上がれない。彼女はおのれの地に投げ倒されて、これを起こしてくれる者もいない。」

5: 3

まことに、神である主はこう仰せられる。「イスラエルの家で、千人を出征させていた町には百人が残り、百人を出征させていた町には十人が残ろう。」


新共同約では「兵を出した町」でした 
イスラエルの家で、千人を出征させていた町には百人が残り、百人を出征させていた町には十人が残ろう。

「兵については」
2テモテ 2: 3

キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。

2:4
兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。
やはり、クリスチャンの事を書かれているのです。  町は家(教会)が多くなると町になります。
 イスラエルの家で、千人を出征させていた町には百人が残り、百人を出征させていた町には十人が残ろう。なんと、中東の最終戦争の事ではないのです!教会、クリスチャンの事なのです
千人が百人に 百人が十人に 残ります、残りの者の数は少ないのです・・・
なぜ?信仰の先輩たちは沢山いてクリスチャンとしての一生を過ごしたのに・・・主の日にはクリスチャンの残りのものの数は少ないの?

1ペテロ4:17なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。

 神の家とは生ける神の教会のことであり 1テモテ3:15

ですから。

5: 4

まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ。


エレミヤの部屋で 聖書と逆のことを考える 聖書で聖書を解かせる

と言う事を学びました

5: 4

まことに主は、イスラエルの家にこう仰せられる。「わたしを求めて生きよ。

わたし(神様)を求めて生きているのなら、  わたしを求めて生きよ。 とは書かれません

わたしを求めて生きていないから、わたしを求めて生きよ。  このように書かれているのです。 そしてこの箇所



 

この箇所を見るには見ていたのですが



5:5
ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕え移され、ベテルは無に帰するからだ。」
ルカ4:11

そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。

4:12それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」
でした
ベテルを求めるな。

ベテルに関してヤコブは

創世記28:16
ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。
28:17
彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」  

神の家とは生ける神の教会のことであり 1テモテ3:15 

5:5

ベテルを求めるな。ギルガルに行くな。ベエル・シェバにおもむくな。ギルガルは必ず捕え移され、ベテルは無に帰するからだ。」


そんな事はない! いいえ ベテル(神の家)は無に帰するからだ。」  *ギルガルは(転がると言う意味)



どうすればいいのか?教会が無に帰するのなら 

5: 6

主を求めて生きよ。さもないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下り、これを焼き尽くし、ベテルのためにこれを消す者がいなくなる。

この火は(悪霊の霊)の事と思われます、こちらは聖霊↓

ローマ12:11
勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

肉的に、人間的には 熱いヤカンを触って「あつい!」と言う事はありますが

ローマ8:5肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。

と言う事を見ると、このことも非常に明確に預言されています 

ベテルのためにこれを消す者がいなくなる。

どういうことか 「金粉舞ってますけど、あれは神からの霊ではなく

  2テサロニケ 2:9

不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、

2テサロニケ 2:10
また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

ですよ。なんて言いいだしたら 教会にとってマイナスであり 評判も落ち 人数も減り献金も減り・・・つまり

ベテルのためにこれを消す者がいなくなる。  のです。

http://ameblo.jp/rebanonn/entry-10163001936.html  ←金粉オイル宝石動画追加しました。+4


5: 7

彼らは公義を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。

アモス書5章1説から7節までを見ました 主を求めて生き 公義を保ち正義を地に投げ捨てない ようにしましょう。 エレミヤの部屋に沢山聖書の事(奥義)が詳しく、解りやすく書かれています

是非ご覧ください→ http://www.geocities.co.jp/Technopolis/6810/

次は 信仰と不信仰の決定的な違い を書きたいと思います。