日々是好日

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  • 17Nov
    • ソサノヲ

      ヤマトタケは自らをソサノヲの生まれ変わりとしていた。ヤマトタケにシンクロしてみて初めて自分は元からソサノヲに関連があったことを知る。氏神がソサノヲの妻とされるオオイチヒメだったのだ。そんなことすら数年前まで知らなかった。我が家には氏神が誰なのか知ろうとした者がいなかったから…私の生まれ育ったところは、元は弥生時代の遺跡の上に集落があったことを思い出した。平安時代に火事があり、現在の場所に集落は移動したという。この点からしても先祖が縄文人でない公算は大きい。見た目からして私たちの家系は完全に弥生系。そこで「渡来系の私たちが何故ソサノヲ関連なのだろう?」という疑問が湧く。出雲神族について調べていた時、ソサノヲが朝鮮に一度渡って、日本に戻ってきたという伝承をがあることを知った。が、ホツマにはそういった記述がなかったので、保留事項として棚上げしていた。あれから随分経ったが、今日になってやっとヒントになるかもしれない情報に出くわした。⛩飯盛神社ここから徐々に近づいて行けるかもしれない、何故ソサノヲなのかという疑問の答えに…

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  • 11Nov
    • とんだ勘違い?!

      環濠集落について、ニニキネとかウガヤフキアワセズとかの関連の集落かなぁ、なんて妄想をしていた私だが、自分の過去記事読んで、そのとんちんかんぶりに唖然過去の私すごい!!めちゃくちゃちゃんと調べているやんすっかり忘れている私も私だが…この記事書いた当時は、環濠集落について知識がなく、記事の中では全く触れていなかった。最近環濠集落の全国の遺跡について調べていて、田村遺跡が環濠集落で、居徳遺跡は環濠集落でないことが分かって、慌てて、昔の記事を読み返したところ。そうだったのか、大陸系の集落とした田村遺跡が環濠集落だったとは!!!?ということは、どういうこと?大陸の人々が住んだ村が環濠集落という形式を採用していた訳で…これからボチボチ調べていこう。ちなみに、徳島の方の名東遺跡、私が八倉姫関連の村ではないかと妄想している村は、環濠集落じゃなかったそうそう、徳島のこと、名東遺跡調べていたところでストップしているんだったとにかく焦りは禁物ってことで

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  • 06Nov
  • 01Nov
    • 『最古の王墓 吉武高木遺跡』常松幹雄著

      最古の王墓―吉武高木遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」) 1,620円 Amazon 最近、この本を読んでいる。ぼちぼちしか読めないので、まだまだ進んでいない。これは九州の話し。徳島はどうなったのかといえば、今放置。すみません、本はもって歩けるけれども、パソコンは持って歩けないのでね待ち時間とかがあるときに、この本を読んでいる。何を知っても、新しいことばかりなので、これまたいつものことながら、興味津々で読んでいる。         福岡市博物館HPより青銅器の刀って、祭祀用かと勝手に思っていたのだけれども、戦いで実際に使われていたそうで。そんな当たり前のことを知って、とても感動している私。祭祀用の青銅器の刀は別に作るそうで、作りが違うらしい。実戦用の青銅器の刀は、何度も研ぎ直して使われていたものもあるそうで、発掘されたものを見れば、使われたものかどうかすぐに分かるのだそう。祭祀用の青銅器の刀と、実際に何度も研ぎ直しをされた青銅器の刀を比較した写真を見たとき、何故か思わず涙が溢れそうになった。本当にこの刀で戦って命をつないできた人がいるのだと思うとジンときた。命が亡くなれば、そのまま刀と共にお墓に葬られる訳だから、この刀を使っていた人物は、こんなに刀が細くなるまで戦い続けてきた人なのだと思うと、何ともいえない気持ちになった。人を殺してきたということでもある。その人物がどんな思いで戦っていたのかまでは分からないが、それにしても、こうやって一つの刀を大切に大切に使ってきたということだけは分かる。そして、いろんなことが思い浮かぶ。①弥生に入った頃の九州地方は、戦いに明け暮れていたのかもしれない。 それは一体どうしてなのだろう????②稲作で豊かになったことが、逆に争いを増やしてしまったのだろうか?③ホツマの記述の一体どの時代に当たるのだろうか?④墓のあり方が縄文時代と全く違うのはどうしてなのだろう?⑤それでも、ヒスイの勾玉が威信材であることは変わらなかった。それはどうして?⑥が、それも結局長くは続かなかった。ヒスイの時代が終わったのはどうしてだろう?頭にどんどん湧いてくる疑問のことを考えながら、この本を読んでいる。

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  • 22Oct
    • [徳島] 新たに見えてきたこと

      徳島の神社をひきつづき調べていると、他にもいろいろ気になる神の名が出てきた。そこで一番最初に私が反応したのは、言うまでもなく「出雲族」という言葉!!!「出雲族」と聞いて反応しない訳がなかった  “出雲族”って何? 出雲神族と関係あるんだろうか???先だってアップした徳島の記事では、ごくわずかの神社しかとりあげていない。あれからも少しずつ徳島の神社について調べていた。そして気付いたのだが、ソサノヲをはじめ出雲系の神の名が意外に出てくるということ。全国を調べている訳ではないので、それが徳島特有のことなのか、平均的な率なのかは今のところ分からない。そこで、出てきたのが、「出雲族」という言葉これは気になる 事代主神社 御祭神 事代主命 合祀 大國主命 一説に、安寧天皇の伯父にあたる多臣(おおのおみ)の子孫が出雲族を率いて阿波の伊月に土着し、祖神である事代主命と、祖母五十鈴依媛命を奉斎したという。 鎮座地の「伊月」は、「斎(いつき)」の意味で、祭神・事代主命を斎き祀る場所であるという。 また、吉野川の対岸(南岸)には、粟島という地があり、忌部氏が開拓して、粟を作った場所で、阿波の地名の起こりであり、事代主命の后・阿波津媛命を祀った八條神社が鎮座していたらしい。 社殿の屋根に、柏紋が付いていた。えびすさんの代表紋だ。 「玄松子の記憶」より   ほぉこれは非常に興味深い情報。安寧天皇とは、神武天皇の2代あとの天皇、タマテミのこと。欠史八代に含まれる安寧天皇の時代のことは、ホツマ含め、『記紀』にもほとんど記録がない。ゆえに、欠史八代の時代、この地に出雲のある一族が移り住んだというなら、その事実が一体何を意味しているのか、とても気になるところ。この事代主神社に祀られている「事代主命」とは、ツミハのことらしい。その妻と言われる「阿波津媛命」というのは、ミシマミゾクイの娘の「タマクシヒメ」のことを指しているとサイト『ホツマツタヱ解読ガイド』の駒形さんはいう。駒形さんによると、『先代旧事本紀』に「大阪の淀川と並行して流れる安威川の水利を管理していた三島溝咋の娘で、事代主神は奈良盆地から木津川 (当時は鴨川と言った)・淀川を通って、ここへ通って来られていたといわれ、旧事本紀には事代主神が八尋の熊鰐に化して通ったという記事があります。」とあるそうだ。「熊鰐」とは何か分からないが、「鰐」は「ワニ船」からきているのかもしれない。「熊鰐」という名字があるらしいが、関係あるかは分からない。当時の船の中では最も高速であった「ワニ船」に乗って、ヒメのもとまで通っていたというのが本当のところではないかと私は思う。それだけ早くヒメのもとに行きたかったのか、単に忙し過ぎる生活を送っていたのか…。今でいえば、自家用セスナで飛び回っているようなイメージかな?!ツミハは「阿波 → ハラ → ミシマ → ハラ → ミシマ → 伊予と通い勤め」(「ホツマツタヱ解読ガイド」より)たそうで、実際忙しい生活を送っていたようだ。ホツマによると、ツミハはホオテミの時代に弟のタケフツと共に四国の24県を治めていたという。ただ、その業績を言い伝えとして残す神社に私は今のところまだ行き当たっていない。もしかすると、徳島以外の四国のどこかの神社にその偉業を伝える神社が存在するかもしれない。いずれそれが分かったとき、また記事にすることにして、今ツミハの痕跡が残るのは徳島ではこの事代主神社になる。「多臣」の子孫がこの地に来て事代主命を祀ったとすれば、安寧天皇以降のこととなる。つまりは、事代主神社の情報から、「[徳島] 縄文から弥生へ」の記事の前後にあたる歴史が、一部見えてきたということになろうか?!ツミハは前回記事でとりあげたタチカラヲと同時代の人物か、あるいはそれより少し前の人物となるので、ツミハのことを調べることで、その辺りの歴史がより一層明らかになると思われる。「多臣」の子孫は天富命より後の時代の人のことだと思われる。弥生時代の後期、あるいは晩期、古墳時代前夜にあたるかもしれない。このように、先だっての記事を基準にして、そこから少しずつ膨らませていこうと思っているちなみに、100年単位くらいでしか歴史は追えないかなぁと思っていたが、意外にも数十年単位で見えてきている気がする。信じられないけどね。これって、縄文から弥生の頃の話しですよ。そんなに細かく見えてくるとはねぇ、民間の記録って侮れないかも…

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  • 20Oct
    • [夢]テロ?

      ①ある日の夢私は何かの入った小さな小瓶を手に握りしめて逃げていた。非常に洗練された巨大ショッピングモールの入った高層ビルの一角。私の持っているこの小瓶の中身が非常に重要な何かの証拠となるものだということだけは知っていたが、私は組織の人間ではなかった。証拠隠滅をはかるため、若い男が私がいる階の一つ上の階から、手榴弾程度の大きさのものを空中に向かって、ニヤニヤしながら投げるのを目の当たりにする。するとそれに呼応するかのように、周りから同じものが大量に同じ方向に向かって投げられた。そこからはスローモーション。とにかくその場から必死に反対方向に向かって走り出した。その爆発物は煙のようなものを出しながら空中で弾け始めていた。『あれは小さな核爆弾じゃないのかな?』そんな最悪のことを思いながら、走りに走って倉庫のような所に滑り込んだ。そこにいた従業員の人は重い扉を閉めて爆発に備えた。みんな逃げていく。『こんな程度の壁では核爆発は防げないだろうな。投げたヤツらも一緒に死ぬ気なんだろうな』そう全ての証拠を消すために…そこで目が覚めた。②また別の日今日は巨大ショッピングモールの核シェルターの見学会。その国は非常に豊かで、高層ビルのショッピングモールとなっている。核シェルターもまるでマンションのように個室があったり、いろんなタイプの部屋が準備されていて、超豪華。多くの人々を収容する必要があるため奥の方まで部屋は続いている。案内係がいう。トイレ問題が最重要課題。「この核シェルターでは、大きな設備を用意しトイレの汚水の浄化を行なっている」という。まるで遊園地のアトラクションのライドにような乗り物に乗ってその大型浄化システム内を案内されていた。夢です。このパターンの夢、私の中ではちょっとシリーズ化してきている気がする。数年前、巨大高層ビルで一瞬にして亡くなってしまった女性が、死んだことが分からずに、同じ場面を繰り返して、その現実にはまり込んでしまっているというのを見たことがある。今回見た夢の高層ビルとよく似ている。これはどこの国の話?日本でない気がする。夢だけど…追記知らなかったのだけど、今イランとアメリカの間がよろしくないとか…今後またテロとか起こるのだろうか?そういえば、今これを書いてて思いだしたのだけれど、私、新聞かな、何かで9.11みたいなテロがまた起きたというのを見たのだけど、それって夢ですか?それともリアル?最近全くニュースを見ないので世界情勢を知らないのですよ2018.11.11

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  • 15Oct
    • メモ [徳島] その他の神々の痕跡

      ※主にサイト「玄松子の記憶」の情報を元にまとめさせていただいた。 サイト主さま、いつもお世話になっております。★その他のカミヒコサシカタワケノミコト(ヒコサシマ)天佐自能和氣(あまさしのわけ)神社 徳島県徳島市不動東町4宮西569-1現在の祭神は、四柱だが、もとは、日子刺肩別尊一柱。ついで、その母にあたる意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命も合せ祀り、さらに、二柱を後世に加えたと考えられている。意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命は、孝霊天皇の第三夫人であり、日子刺肩別尊は、その第二子。高志之利波臣・豊前之国前臣・五百原君・角鹿海直の祖とされている。ちなみに、第一子は、大物主命の妻となった夜麻登々母々曾毘売命。第三子は、四道将軍の一人・大吉備津彦命。すごい兄弟なのだ。トヨタマヒメ王子和多津美神社 徳島県徳島市国府町和田宮の元20速雨(はやさめ)神社 徳島県徳島市八多町板東91宇奈爲神社 徳島県那賀郡那賀町木頭字内の瀬1  祭神 豊玉彦、豊玉姫、玉依姫カシハヒメ賀志波比売神社 徳島県阿南市見能林町柏野22津峯神社 徳島県阿南市津乃峰町東分343タテヒメ古烏神社 徳島県阿南市宝田町川原64カエヒメ葦稲葉神社 徳島県板野郡上板町神宅字宮ノ北45鹿江比賣神社 徳島県鳴門市大麻町板東塚鼻タツシマメオヤノミコト建嶋女祖命神社 徳島県小松島市中田町字広見42祭神は、建嶋女祖命であり、当地の開拓女神を祀ったものとされている。祭神には異説があり、埴安姫命とする説、下照姫命とする説、沖津比女命とする説など。ソサノヲ建神社(脇町) 徳島県美馬市脇町猪尻建神社下南1建神社(つるぎ町) 徳島県美馬郡つるぎ町半田字逢坂62八坂神社(美馬町) 徳島県美馬市美馬町字滝の宮231武大神社 徳島県三好市井川町井内西1042殿宮神社 徳島県板野郡上板町神宅字宮ノ北45タケミナカタ多祁御奈刀弥(たけみなとみ)神社 徳島県名西郡石井町浦庄字諏訪213-1タケミカツチ・フツヌシ赤田(あかんた)神社 徳島県阿波市土成町成当字大場1450伊笠神社 徳島県阿波市市場町犬墓字白水伊笠山上194建布都神社 徳島県阿波市市場町香美字郷社本18建布都神社 徳島県阿波市土成町郡字建布都569伊射奈美神社(穴吹) 徳島県美馬市穴吹町三島字舞中島52ミマツヒコ御間都比古神社 徳島県名東郡佐那河内村下モノミ石74-2当社祭神・御間都比古色止命は、当地開拓の祖。成務天皇の頃、九世孫の韓脊の足尼が国造となり、長峯中腹に奉祀したのがはじまり。ウシヒコ宇志比古神社(大谷) 徳島県鳴門市大麻町大谷字山田66宇志比古 宇志比売神社 徳島県鳴門市大麻町板東牛ノ宮東18 アメノムラクモ・伊自波夜比賣命天村雲神社 徳島県吉野川市山川町村雲133天村雲神社 徳島県吉野川市山川町流32イカガシコオ・イカガシコメ伊加加志神社 徳島県吉野川市川島町桑村1635天水沼間比古神・天水塞比賣神敷島神社(合祀) 徳島県吉野川市鴨島町大字敷地1339杉尾神社 徳島県吉野川市鴨島町大字牛島字杉尾200祕羽目神・足濱目門比賣神中内神社 徳島県吉野川市鴨島町西麻植中筋58八幡神社 徳島県吉野川市川島町児島前池北49   元日羽女神社アサダチヒコ朝立彦神社 徳島県徳島市飯谷町小竹101祭神は現在、豊玉毘古命となっているが、式内・阿佐多知比古神社であるなら、阿佐多知比古であるはず。★その他・巨石 古代の祭祀あと?立岩神社 徳島県徳島市多家良町立岩  ※祭神 アマツマラ(サイト「神社と古事記」によると、こちらの巨石は、日本一を誇る男根を現す陽石と。)立岩神社 徳島県名西郡神山町鬼籠野元山746 ※祭神 シナツヒコ(サイト:「神社と古事記」より サイト主によると、この岩は女蔭を現した陰石と。二つの、立岩神社は対の関係にあるともいわれる。)石尾神社 徳島県美馬市穴吹町古宮平谷・出雲族!!事代主神社 徳島県阿波市市場町伊月字宮ノ本100-1一説に、安寧天皇の伯父にあたる多臣の子孫が出雲族を率いて阿波の伊月に土着し、祖神である事代主命と、祖母五十鈴依媛命を奉斎したという。鎮座地の「伊月」は、「斎(いつき)」の意味で、祭神・事代主命を斎き祀る場所であるという。また、吉野川の対岸(南岸)には、粟島という地があり、忌部氏が開拓して、粟を作った場所で、阿波の地名の起こりであり、事代主命の后・阿波津媛命を祀った八條神社が鎮座していたらしい。社殿の屋根に、柏紋が付いていた。えびすさんの代表紋だ。・長氏(ながうじ)生夷(いくい)神社 徳島県勝浦郡勝浦町沼江田中71祭神・事代主命は、阿波南方三郡(勝浦・那賀・海部)に勢力のあった長氏(ながうじ)の始祖。当地を開拓した集団が祀ったお宮。神戸の『長田神社史』によると、社地の近くに、長田という小字が残っており、おそらく、摂津国の長田から、事代主命を始祖とする長柄首、あるいは長我孫の一族が阿波に入り、長直と称して、開拓にあたったものと説明している。社名の「生夷」は、「イクイナ」の意味らしく、沼江の田中に鎮座するに相応しい社名。また、祭神・事代主命の俗称である、夷(エビス)をも表し、当社も、通称は、エベッサン。●参照⇒玄松子の記憶 延喜式神名帳 南海道 阿波國

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  • 11Oct
    • [徳島] 縄文から弥生へ [オミ(臣)の痕跡]

      徳島について調べていて分かったことは、この地が麻に関しては非常に古い伝統を持つということ。何故なら、天皇の大嘗祭のときの麁服(あらたえ)を、この地の三木家が献上しているというのだから。(あ、でも調べたら明治以降の話しとか…)三木家は、忌部氏の流れを汲む一族だそうだ。 そっかぁ、忌部氏のねぇ、へぇ! で、忌部氏って???無知で本当にすみませんで、まぁ、いつものごとく、いろいろと調べていた訳ですよ。とにかく、何も知らないんでね、一つ一つちまちまと調べていた訳です。前から、言っているとおり、この徳島の辺りでとても有名なカミ、「オオゲツヒメ」がまずよく分からない。「伊勢の丹生の郷から馬に乗って来た」という伝承があるが、架空の「オオゲツヒメ」のことでなく、『本当は一体誰のことを指しているのか?!』と、私は考えてしまうのですよ。「古事記」以外に名の出てこないヒメとなると、私としては架空の神と判断せざるを得ないなと。そこで、『「八倉姫」とは実際には誰のことを指しているのか?』という視点のもとに調べ物をした。徳島の辺りのことを調べていると、やはり「オオゲツヒメ」よりも「八倉姫」の方が名前がよく出てくる。さもありなんという気がする。私としては、『「古事記」に「オオゲツヒメ」とあるから、元々は「八倉姫」だったのを、後付けで「八倉姫」=「オオゲツヒメ」としたのではないかと?!』とそう考えていたのでね。元々が「八倉姫」なら、「八倉姫」の名が多く残って当たり前というものだ。私の憶測だが、徳島の昔の知識人が『記紀』に「八倉姫」の名が出てこないので、「八倉姫は、実はオオゲツヒメなんだ!!!」と勝手に言いだしたのではないかなぁと。というのも、天岩戸神社があったり、なんというか、この徳島こそ、神話の舞台ではないかと思わせるようないろいろのものが揃っていたからだと、私はそんな風に思う。『なら、『記紀』に徳島の神の名が残ってもいいはずだ!!』と、普通はそう思うのじゃないかと。だから、徳島の誰かが、「「八倉姫」とは『記紀』でいうところの一体誰なのか?」と、そう考えたのではなかろうかと…で、あるとき、「謎の神「オオゲツヒメ」こそが「八倉姫」ではなかろうか」とひらめいたと。分からないけれど、ありそうな気がしません?(現代でも、日本各地が、邪馬台国を名乗り出ているという例がある。実は徳島も名乗り出ている地域の一つだったりするのだが…)じゃぁ、なぜそのようなものが揃っていたのだろうかと、また疑問がわいてくるのだよね。そのようなものとは、天岩戸神社、天照大神の葬儀の記録、五角の石積みetcまぁ、それはさておいて…とりあえず、「オオゲツヒメ」に関しては、地元神、「八倉姫」なのかもしれないが、その「八倉姫」という神も、歴史書に名が出てこないので、暗礁に乗り上げてしまい、そこで次に注目したのが「天日鷲命」。この方もホツマツタヱには出てこないカミ。日本の神々についての知識がほとんどないので、とりあえず調べるしかないという…この「天日鷲命」なるカミは、出自もあまりよく分かっていないようだった。いろいろの説がある。Wikiを見ると、「天背男命」(あめのせおのみこと)」の子とある。カミムスビの4世孫だそうだ。Wikiの情報の出所が不明なので、この情報をどこまで信用していいのか分からない。「天背男命」ならばホツマにも出てくる。 アマセオ 天背男命。カンミ(ヤソキネ)の玄孫。タマクシのいとこ。テルヒコと共にアスカへ下る。 (「ホツマツタヱ解読ガイド」より)が、ホツマにアマセオの子の名は出てこない。ただ、アマセオはカンミムスビである、ヤソキネの玄孫(やしゃご、つまり孫の孫)なので、天日鷲命は、ヤソキネの5世孫ということかな?!ヤソキネの父はトヨケ、ということはトヨケの6世孫ということでもある。多くのネット情報が、「天日鷲命」は「天背男命」の子としている。が、阿波の方の情報によると、「天日鷲命」は「天手力男命」の子とある。あるいは、「天日鷲命」が「天手力男命」本人という場合もある。(アメンバー限定記事の「資料編1・2」参照)その「天手力男命」(あるいは「天日鷲命」)の后が「八倉姫」ということになっている。ようやくここでピンときた「八倉姫」にどうして、「天石門別」という言葉がつくのだろうと、ずっと不思議だった。そうか、そういうことか「八倉姫」とは「天手力男命」と関係があったカミだからじゃなかろうか?!ならば、非常に納得できる。もし、「八倉姫」が「天手力男命」の妻だったとしたら、天岩戸に関する何らかの伝承や、物証が徳島に残っていたとしても、それは何の不思議もない。「天手力男命」、つまり「タチカラヲ」。「タチカラヲ」といえば、アマテルがソサノヲの乱行を恐れて結室に籠ったときに、その戸を取り除いたことで有名なカミである。『記紀』でいうところの天岩戸伝説。ホツマツタヱと『記紀』の記述にかなり違いがあるとしても、「タチカラヲ」が戸を開いたという点は同じだ。ところが、それだけの活躍をした「タチカラヲ」であっても、ホツマには妻や御子についての記録がない。もし、「八倉姫」がタチカラヲの妻だったとしたら?!!!だとすれば、いろいろと辻褄が合ってくるのだ。何せ、「タチカラヲ」はヒルコの息子なのだ。ここが、一番重要!「丹生(ニフ)のカミ」と呼ばれたヒルコの息子!!!その「タチカラヲ」の妻であった「八倉姫」が、「丹生の郷から馬に乗って来た」としたら、それはごく自然な 流れ。「タチカラヲ」がいつ「八倉姫」と夫婦になったのかは分からないが、「タチカラヲ」は父オモイカネの跡を継いで、伊勢のイサワ宮で日夜見を行っていたとホツマには記録がある。『古事記』にも「手力男神者、坐佐那那県也」とあり、三重県多気郡多気町仁田にある佐那神社の祭神は正に天手力男命。この伊勢の地に「タチカラヲ」が居を構えていたとしたら、妻である「八倉姫」がその地にいてもおかしくない。妻である「八倉姫」はある時伊勢から徳島の地まで赴いたのかもしれない。民の要請でヒメが赴くことは、ヒルコやホノコの例を見ても有り得ることだった。当時から、女性も馬に乗っていた(正史では日本には馬はいなかったとされているが…)し、私たちが想像する以上に海上交通もかなり発達していた。よって、この伝承の信憑性が随分と増してくる気がするのだ。「丹生の郷」から来たというのが重要なポイントではないか!伊勢から来たのでなく、「丹生の郷」と限定されるところに意味がある気がしてならない。「タチカラヲ」がヒルコの息子であれば、この夫婦が丹生に何等かの関りがあったとしてもおかしくないと思うのだ。何せ、「タチカラヲ」が居を構えていたと推測される佐那神社は丹生の郷とは数キロしか離れていない。関係ないと考えるほうが無理があるだろう。実は徳島の方にも「佐那」とつく地名が存在する。徳島県佐那河内村。その地に、「天岩戸別神社」があるのだ。当たり前だが、祭神は天手力男命。だとすれば、「タチカラヲ」と「八倉姫」は徳島に居を移したと考えても良いのではないだろうか?!夫婦そろって、この地の開発に従事したと考えた方が筋が通っている気がする。徳島の地が辰砂で有名になったのは、いつからだったか?!そう、弥生時代!ヒルコの時代より後の時代の話し。もしタチカラヲ夫婦が水銀鉱山の開発に着手して、それが軌道に乗り、この地が一大産地となるのにどれくらいの年数が必要だろう?当時は全てが人力。徳島の若杉山の水銀鉱山が、一大産地となったのが、弥生時代後期とすれば、もしかするとそれくらいの時間を必要としたのかもしれない。ホツマによると、「タチカラヲ」は、ハルナハハミチ・アヱノミチとの戦いに参戦したり、ニニキネの全国行脚の先駆りを務めたり、ハラミの八湖を掘ったりと忙しく全国を飛び回っていたので、徳島の開発に尽力したのは主に「八倉姫」だったのかもしれない。ゆえに、徳島で祀られているのが「八倉姫」ばかりなのではないか。徳島の佐那河内村では神社に「天岩戸別(アマノイワトワケ)」と付けるくらいなので、「タチカラヲ」のことを地元ではそのように呼び習わしていたのかもしれない。「八倉姫」の名の前にも、「天石門別(アマノイワトワケ)」とつく。漢字だけを見ると、「タチカラヲ」と同時代の「天石門別神」のことを指しているようにも見える。もしかするとだが、「八倉姫」は「天石門別神」の娘だった可能性もないとはいえないかもしれない。が、私としては、地元でタチカラヲを「天岩戸別」と呼んでいたので、妻である「八倉姫」も「アマノイワトワケヤクラヒメ」と呼ばれたと考える方が自然な気はする。もし「タチカラヲ」からきている「アマノイワトワケ」なら、佐那河内村の神社と同じ漢字をあてはめた方が良かったかもしれないと、私は思う。「天岩戸別八倉比売」!「アマノイワトワケヤクラヒメ」に「天石門別神」の漢字をあてはめた人物の真意を知りたい。とりあえず、結論の出ないことに字数使っていても仕方ないので、本題に戻す。「タチカラヲ」がもしこの地に居を構えていたのだとすれば、ヒルコの息子であるのだから、国分町の八倉比売神社に「天照大神」の葬儀の記録が残っているとしてもおかしくはないのかもしれない。(葬儀の記録の詳細を知らないので何とも言えないが…)いろいろ不思議なものが残っているとして、それがアマテル、ヒルコに関連するものだとしたら、それはそれで非常に興味深い。架空の天照大御神よりよほど興味深い。さて、結論。私の今の結論としては下記のとおり。その昔、伊勢の丹生の佐那の郷に住んでいたタチカラヲ、ヤクラヒメ夫婦は、何らかの事情で、徳島の地に移り住んだ。移り住んだ地にも「佐那」と名付けた。その地で、二人は土地の開発に尽力した。全国を忙しく飛び回っていたタチカラヲの代わりに、妻であるヤクラヒメが主に地域の開発に貢献した。粟の栽培に力を入れたようで、「大粟比売」とも呼ばれる。記録はないが、水銀鉱山の開発にも着手したのではないかと思われる。よって、「八倉姫」がこの地で多く祀られることとなった。(和歌山の「ニウノカミ」の例を見ても分かる通り、地元の人はその地の開発に尽力したカミを祀るものだ!)夫婦亡きあとは、「天日鷲命」がそのあとを継ぎ、地元の開発に携わった。当時は世襲制ではなかったので、あとを継ぐのが息子や娘である必要はなかった。後には、「天富命」が「天日鷲命」の後裔を従えて、この地の開発に勤しんだ。時は神武朝の頃。主に穀・麻を植え、麻布や木綿を生産し民を豊かにしたようだ。よって、大麻比古神とも呼ばれた。中でも水銀鉱山の開発には時間を要した。ようやく軌道に乗ったのは弥生も終わりに近づいた頃だった。とまぁ、今のところ分かっていることを総合すると、こんなイメージ。また新たな事実を知った時点で、修正していくとして、とりあえずの結論

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  • 28Aug
    • ミヤズヒメ

      たまたま、和歌山の名草姫関連のことを調べる機会があって、少し驚きの事実が…名草姫と言っても、以前調べたことのある、神武東征の折に名の出た「名草戸畔(なくさとべ)」と関連があるのかないのかは、今のところ分からない。「名草戸畔」という人物は、私的には縄文のシャーマンだったということになっていて、だからこそ、その力を封じるために死体をバラバラされたのではないかと、そう思った次第。居徳遺跡の遺体もバラバラにされていたしね。その後の名草の地は一体どうなっていたのだろうか?縄文シャーマンの血は誰かが受け継いだのだろうか?「名草戸畔」が居なくなったあとは、神武より紀伊国造として「天道根命(あめのみちねのみこと)」が任命され、この地に赴任したと思われる。「天道根命」は、トヨケの曾曾孫に当たるらしい。曽祖父はヤソキネなのだが、ヤソキネとアマノミチネの間の人物はホツマでは不詳。とにかく「名草戸畔」とは直接には関係ない人物だ。国造というのは、同じ家系で代々継ぐものでもなかったらしく、「天道根命」のあとは、「智名曽(ちなそ)」という人物が紀伊国造になったらしい。「智名曽」の妹が「中名草姫(なかつなくさひめ・なかなくさひめ)」だ。妹が「名草」を名乗るくらいだから、「智名曽」は名草の地元の民だったのかもしれない。といっても、これは『先代旧事本紀』の情報なので、どこまで信憑性があるのか、今の私には判断できるほど『旧事』についての知識がないので、一応そうらしいということでこの記事を書く。駒形さんのホツマツタヱ解読ガイドだけ見ていては気づかなかった。確かに「タケトメ」の段に「オトヨの祖父」とある。全くそこにフォーカスしていなかった私 タケトメ 建斗米命。武刀米命。 タケヒテル(タケテル) の子。タケダ(健多乎利命)の父。オトヨの祖父。 オオヤマトフトニ(7代孝霊天皇)の臣と召され、尾張連タケヅツグサの養子に入りその後を継ぐ。「オトヨ」で気づくべきだった。そうなのだ、「オトヨ」とはミヤズヒメの父タケトメはミヤズヒメからしたら、曾祖父に当たるのだ。「名草戸畔」を調べていた時は、全くこのことに気づかなかったが、何とも不思議な気がする。で、ホツマの記述からすると、ミヤズヒメも何かしらの霊能的なものを持っていたらしいのだけど、それもそのはず、トヨケの血と和歌山のシャーマンの血が流れていたのかもしれないのだものね、そりゃ何か持っててもおかしくない。だからヤマトタケもミヤズヒメの元に草薙の剣を置いていったのだろう。なんか、今頃そういうことが分かって、ちょっと嬉しい私最近は大高の辺り通っても、特に感極まったりしなくなったので、ミヤズヒメも気が済んだのかな?!

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  • 27Aug
    • 新しい風

      進撃の作者も曲担当者も30代。新しい世代が活躍していることが何だか嬉しい。宮崎駿と久石譲のペアと比べるのは失礼かもしれないけど、でもそれくらいのインパクトを子どもたちには与えていると思う。初めてナウシカを見た時の自分を思い出す。新しい時代が来たって、心底嬉しかった!進撃の巨人。この動画の場面はストーリーを知っている者にとっては、何とも心揺さぶられるシーンなのだ。何度聞いても良いなぁこの曲を作っている澤野さんて方は、久石譲の影響も受けているそう。すごく納得

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    • メモ  名草姫から八坂入媛へ(資料編)

      「ホツマツタヱ解読ガイド」よりタケトメ建斗米命。武刀米命。 タケヒテル(タケテル) の子。タケダ(健多乎利命)の父。オトヨの祖父。オオヤマトフトニ(7代孝霊天皇)の臣と召され、尾張連タケヅツグサの養子に入りその後を継ぐ。岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹、伊富岐 (イブキ) 神社★『旧事』紀伊国造智名曾の女、中名草姫を娶り六男一女生む。其一名草彦神也。 建斗米命-健宇那比命-健諸隅命 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇『先代旧事本紀』より中名草姫智名曽の妹。[配偶者]建斗米命(たけとめのみこと)【先代旧事本紀巻第五天孫本紀】[子]①建田背命(たけたせのみこと) ⇒ 神服連(かんはとりむらじ)・海部直(あまべのあたい)・丹波国造・但馬国造等の祖②建宇那比命(たけうなひのみこと) ⇒ 節名草姫が妻。大海姫の父。③建田乎利命(たけたおりのみこと)  ⇒ 笛連(ふえふきのむらじ)・若犬甘連(わかいぬかいのむらじ)等の祖④建弥阿久良命(たけみあくらのみこと) ⇒ 高屋大分(おおきたのくにの)国造等の祖⑤建麻利尼命(たけまりねのみこと) ⇒ 石作連・桑内連・山辺県主の祖⑥建手和未邇命(たけたわにのみこと) ⇒ 身人部連(むとべのむらじ)等の祖⑦宇那比姫命(うなひひめのみこと)節名草姫磯城島連(しきしまのむらじ )祖【先代旧事本紀巻第五天孫本紀】[配偶者]建宇那比命(たけうなひのみこと)[子]①建諸隅命(たけもろすみのみこと) ⇒孝昭天皇の時代に大臣(おおおみ)として仕えた)。 子の倭得玉彦命(やまとのえたまひこのみこと)は淡海国谷上刀婢(おうみのくにのたなかみとべ)が配偶者。②大海姫命(おおあまひめのみこと) ⇒崇神天皇妃、尾張連の祖(「古事記」中巻 崇神天皇段)。 『旧事』では、子に「八坂入彦命」がいることになっている。 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇【参考】●紀伊国造・天道根命(あめのみちねのみこと) ⇒神武朝の御世に紀伊国造を賜る・智名曽(ちなそ) ⇒中名草姫の兄・荒河刀弁(あらかわとべ) ⇒娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ)は崇神天皇の后となる。 ※遠津年魚眼眼妙媛は豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)の母にあたる。※豊鍬入姫命崇神朝のときに、アマテルを笠縫邑(かさぬいむら)に祀った。・蔭佐奈朝命(かげさなあさのみこと) ⇒子の大屋古命は、崇神朝の時代に石見国造を賜る。

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  • 22Aug

プロフィール

たま

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人生には無駄な経験なんてものは何もないというのを実感中( ̄▽+ ̄*)

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