人の本心という本神とはなんじゃろうと思うたら
『真我』やと言われた
真我とはまことの自分、つまり本当の自分ながよね
よく自分を見つける旅に出るとかいうけど、普通真我とは自我によって見えにくくなっちょるもんでね
でも以外に驚かされたりしたらヒョイっとでる
これは本音とは違う。
これに出会えば生きる目的と使命を捉える為に、皆これに会おうとしよる
その過程が宿命や運命で大変やったり、苦労したり、また逆の楽しいと思うてしもうたことを見付けたり、したいことがなぜかしら明確であったりとする事で、行動した成の果てに、本心と出会うもんながよ。
徳が高い子は昔から自我が薄くて真我のまんまやけん、メッチャ普通。
宗教とかでお坊さんになるなら神様に仕える事が目的になるけど、一般の人は何をしよるかってこの真我に出会う事が目的になるがね。
真理っていうもんは、体感や体現をせんと感覚の領域の話しになるけん、文では理解し難いがよ
やけんそれこそ本格的な修行が必要になる
いくら真理を聞いたところで、はぁーーー・・・的なもんやろう
よくわからんけど、よくわからん。というような。
ただ、あの世からの道理や道徳や、なんとなくなことはわかるけん、そこを刺激しよったら、神様の領域に行くのではなくて、そんな神様の事に同意や納得や共感できる自分が元から在るのだなあ~と、神様に気付く視点よりは、そんなもんに同調する部分を持つ自分に気付けたらええのよ。
理屈や観念が必要ない部分でのこんなことを当たり前とする自分とは、真我やけんね。
昭和の時代の人はそれが強かったわえ
特に今の70代80代90代は。
やけんやったことが返ってきたとか、頭がなにかしら自分のしてきたことに起こったことが自然と結び付きよったし、その為にいらんことを避ける部分が多かったわ。
人に感謝や助けちょったら自分がそのお陰で助けられる事が起こる事も、損得の計算がおいつかんタイミングで起こる事も、口にはせずともわかっていたしな。
うちら、袴を着たおんちゃらんらのゆうたことは拒否できるし、言われた事が100%起こるかというたら、本気で抵抗したらそうでもない。
ただ、本心が喋った事だけは抵抗の余地がなく外れる事を知らんわ。
やけんこれに喋られたら200%の勢いで観念するしかない。
天理教の陽気暮らしを天道と神霊には言われたけど、あれは真我で生きるやり方ながよね
感謝して、陽気に、明るく、勇んで、助け合い、思いやりという
あの天道である教えの行動とは、まさに本心でポーーーとおったら人間教えられんでもあんなことになる。
やけど、そのポーーーとおることは陰徳を積まんと難しい
ポーーーと陽気におれんのはやはりそれなりの見えんところからの理由がある
その見えん部分を抑えて本心でおれるようにするのが、宗教では神様に拝むという行為ながよね
本心は陽気で呑気よ
人の悪感情に引っ張られたりせんし
いらんことも言わんし首もつっこまん
嫌味を言われても、へ~ぐらいなもんよ
でもこれ頑張ったりしてできるもんやない
心の無駄なもの退けたら人間勝手にこうなる
やけん断捨離とか流行るがやろうね
霊的な事を知るにも、神様知るにも何のためにというたら、安心するためにやろう
別に安心したところで、しんどいことや大変な現状って変わらんけど、負担が軽くなるわの。
神様知っても病気治らんし、子育てが楽になるわけやないし、仕事の負担が減るわけやないし、老化をとめれるわけでもないしねえ
ただ、下手な不安や悩みが止まれば、動き方が変わるけん改善するものが出てくる時もあるろう。
不安や悩みや葛藤はねえ~
腰痛から神経痛、倦怠感に疲労三倍、また筋緊張からの姿勢の悪化による無駄な肩凝り頭痛、背部の痛み、ミゾオチの痛みと出るわ
足りない観念で本心の感覚を脳で表現できず、自分の捉え方かわからず無理をしている人というのは、現状が改善せずとも本心を正確に認識できるだけで楽になる。
それを諦めというがやけどね。
まあ、こんな内容も、この手に興味がある人にしか必要ないがやけど
こういうもんであるということよ。
人間ね、病気せんためにはいらんこと考えんかったらええ
それってよ、普通に生きる人より拝みまくりよる人の方が健康状態は保たれる
だって拝みよると一心に集中しまくって一つのもんしかみてないけん、いらんもんが心に無い状態やろう
ある意味断捨離がその瞬間起きちょるわえ。
身体にええがってね。
そういやあ、朝
『神界か=仏界か』
って文字がきて、大神からしんかいか?って言われた
昨日仏教は呪術を使うなら神界やろうか?って疑問やったけど、神界=仏界ということじゃろか。
それにしては神界とは真っ暗で光の世界ではないがやけど、仏界とは光の世界じゃろうに、これをイコールとしてええもんか。