力は平等 | 『真理と道理・人と神』

『真理と道理・人と神』

あの世とこの世のことから人の心や魂や家系の先祖、そこからの道理と常識の大切さを書いています
また先祖や神からの気付きや言いたいこと乗せてます

『皆力は平等』



と、根源神は言いよった




思考の現実はできるできんというもんやなくて、常に目の前にある状況がそもそもの思考の現実でできたもので
生まれた頃から思念は現実として目の前にある


ただ、そこに家系の因果がからんでくると、


『性質が違う』


ってくるので、何を望むか、何を恐れるか、何に満足するか、なにを優先するか、なにを当たり前とするかの

内容や程度が変わってくる




平凡こそ死守したい者

社長やトップにまでいきたい者




人の望むモノや願いって皆違う





そこに人によっては、徳の大きさが関係してくるようやけど、力そのものは皆平等なのだと



個人が満足するだけの現実の力はあると



その何をもってして個人が満足するかは


平凡こそ、もしくは社長こそという外の状況は違ったとしても


中の満足度は同じ値となると。




欲を出しても出さんでも、行き着くところは最後は同じじゃと。



やけん、思考の現実が概況に大きければ力がでかいというもんでもないと



誰でもそんな力はあるにしろ



結局個人の魂が望むものを叶えることしかせんと。


力は魂にあるがやけんね。





そんで、まともな願いの叶え方というのは


本人の的確な意志を自覚することやと。





魂のまんまに自我もおれは、叶ってないということは一切ないし、思考が現実していないという誤解もないと。




そういうもんなんよね。





けど、それはスピリチュアルの分野で片付けれる程の徳がある人の話で




根本から災難に合うような因果をどうするかということをうちは考えよる



人生というのは、魂にとったらゲームで遊びやというたりもする


けど、それはやっぱりどっかで余裕があるけんながよね。




死んでも真っ暗な霊界で、生きていても苦労ばっかりで、死んでも生きても霊界が変わらん人がおるがよ。



死んだら「なんちゃってーー☆」が起こる人と


起こらん人がおるがね。




根源神に帰る人と、帰れん人



人の魂がそんな帰れんようなモノなら相当の時代始まってからの因果に近いモノをもつろう



やけん、うちはほたくって大丈夫なら、それでええし


なんか、妙にゲームですだの、なんちゃってーーだのと言えんような問題があるなら、運命から改善する必要があると思うよ。






自力問題か、そんな表面なんとかしたら済む問題じゃないもんかによるよね。





いかに思考の現実を、誤認ささん意識にもっていくかよねー



でもブログではできんがよ。

言霊では無理なんす











自然の神様って、やっぱりうちも肉体あるし、殺される立場にあるけん畏れんといかんと思うがよ

この肉体の立場からしたら。



でもそんなね、自然の神様に合わせて生きたらええかって、うちの目的って、そこじゃないけん。


けど、自然界がないと生きれんのが肉体やけん、感謝は人としての立場からしたらしてもらわないかんわ。




人が生きる目的として何億年も前から作ってきた世で、最終的に自然の神に決められるということは、ないけんね。



途中経過、人としての部分で神に叩かれても、最終的な意志を叩けることはないけんね。


やけんこっちの感覚としたら、神示にあるようなもんでうちが困るとも、最悪な結果になるとも、そのあたりをひとつも考えてない。










『お前は口で直接ゆってなかったからな』



人には人の現実があるけんね
それも事実、真実やろう