もう少し書いていきたいと思います。
といっても書きたいことはほとんど書いてしまったので、もう少しといいながら、何かあったかなと思いを巡らせている内に、肝心なことを書いていなかったことに気づきました。
ちょっと大事なことです。
劇中のどの辺りかは定かではありませんが、とにかく、イングラムがこちらに大見えを切りながら大立ち回りをしつつ、こちら側にフェイスをあわせるところ。
このシーン自体の意味性ではなくて、その時に思った漠然としたことです。
それは、機動警察パトレイバーというコンテンツはすでに終わっているのではないか、という漠然としたもの。
前述のイングラムを見て思ったことです。
なんとなくのことではありますが、興味深いことでもあるので、自分事ながら少し詳述していきたいと思います。
あえて内面のことですから、雰囲気に終始すると思います。
機動警察パトレイバーという作品は、許容度の高いと言われていて、不定見なテーマであっても成り立つというか、それを面白がるファン層にさせられているという文句をどこかで見ました。
卑俗に言えば、むちゃくちゃやっても許されるというヤツです。
パトレイバーがパトレイバーたる要件もなくて、最低限こうしろというものない。
というよりは、そういう乾いた合理性というか、強要度がないといいますか。
とにかく、製作側の無茶に物申すファン層ではなかったので、キャンバスの性向としては(実像はともかく)白紙に近いものかもしれません。
こういった背景、土壌は押井守による劇場版第2作(パトレイバー2)によって方向づけられたと思います。
それまでは警察もの、ロボットもの、ドタバタもの、SFものといったテリトリーでしたから。
パトレイバー2はそこに政治劇というか、政治的メッセージが発信されて、それが人口に膾炙した。
逆に言えば、ここでパトレイバーは壊れたといえるかもしれません。
文字通りの政治が介入したことによって、定見するテーマテリトリーは崩壊し、なんでもできるという表裏として、何もできないアイロニーが作品を縛り上げた。
入念なのは、キャラクターコンテンツの駆動たる、特車2課の面々に対して、時計の針を進めることで不可逆性の名のもとにコンテンツの未来を閉じさせたこと。
つまり、政治導入と未来閉塞がパトレイバー2で行われた。
人気が出たり、押井守の代表作に数えられたりしたあたりは副産物なのでしょう。
むしろ、パトレイバー2にはその全部ではないにしても、「パトレイバーを終わらせる」というテーゼが含まれていたように思うのです。
これには、そう思うきっかけもあって、どこかで押井自身が、コンテンツの続編を「死人を躍らせるに等しい」と表現していたことがあって、作品人気に引っ張られた商業行為(この場合は単純に続編)に否定的だったことを覚えているからです。
これは「ガンダムを終わらせる」と気炎を上げて新作に挑む富野由悠季や、「アニメなんか見ないで外に出ろ」と発破をかける庵野秀明といったアニメ監督たちに通ずるものがあって、人気の出たコンテンツに対するシニカルな距離感は、しばしば作り手を苛むのではないかと。
これは続編を主駆させるコンテンツビジネス、ノスタルジー商法とは相いれないもので、メディアミックスなどを歯牙にもかけない、「形になったものが全てでそれ以上でもそれ以下でもない」と一期一会の激しい発露を補助線にすればいいと思います。
終わればそれで終わりという単純なものです。
「次」とは続きを指さないということですね。
パトレイバー2もその系譜で見ています。
実際の所、ガンダムやエヴァンゲリオンよりも効果的にパトレイバーは休止しているので、押井守の手腕はこの観点において特に容赦がないというか、徹底的なものを感じますね。
この劇場公開が1993年、作り手を変えた劇場版第3作は2002年です。
コンテンツとしてみれば地固めする期間に9年間のブランクを差し込まれたようなもので、前述の(終わらせる)ギミックもあいまって、機動警察パトレイバーというコンテンツは、どこか足元の定まらないものになっていったのかもしれませんね。
もちろん、その後、実写や短編、あるいは本作のように後続はしているのですが、悪い意味での換骨奪胎になっているのは、残すもの変えるものを判じるべきフィロソフィーのようなものを(育む時間も含めて)パトレイバー2で破壊されたゆえかもしれません。
だから、なんでもありに見せかけながら、機動警察パトレイバーというコンテンツに生息するかぎり、肝心の枢要コンテンツのみ自由でないという座りの悪さが出てしまうわけです。
つまり、機動警察パトレイバーをやっている限り、コンテンツ制約の範囲においてちっとも自由でないといいますか、内実を自由とうそぶくことが、その全体をいかに空虚にしているといいますか。
そういった煩悶の、最新の表現が「機動警察パトレイバー EXY」だとすれば、駆動するイングラムに抱く感情は、やはりスクリーンから脱せられない、収監されたIPの慟哭なのかもしれませんね。
今回はこんなところです。
イングラムがこちらを向いたとき、穏やかでいられない自分の気持ちを書いてみました。
とはいえ、気分なので、あまり持続性のあるものいいではないかもしれませんが、とりあえず書いてみたということで。
それでは。
