生命について考えてみませんか?

 

 

もし、今日が最後なら何を伝えたいか?という最後の講義。

アメリカの大学ではじまった大きな流れが日本にやってきた。

 

生物学者 福岡伸一さんの最後の講義。

 

福岡博士といえば、

未知なる遺伝子を発見し、

「生物と無生物の間」の著者。

 

生命とは何かを問い続けていらっしゃいます。

 

 

自然の法則のことを、福岡博士は動的平衡と

言っているのではと思いました。

違う言葉だけど、内容は同じ。

 

 

脳死という人間が作った死の基準についても

警告を鳴らしています。

 

生命視点の考えからです。

 

 

学生からの質問コーナーで

証拠がないし、科学的ではないという質問がありました。

 

「生命には形がないから説明することは難しい。

だけど、生命を認めていくことが大事」と、

行動している姿が、飯島さんと重なりました。

 

 

11月23日(金) 長野県長野市にある

音楽教室&シェアスペースYU-YU HOUSEさんで

生命の学び家(舎) を行います。

生命に向かい合う会です。

興味ある方は是非ご参加ください。

 

前回、子供達がたくさん参加してくれましたが、

皆、真剣に聞いてくれました。

 

主催者のゆみさんのブログ)

 

第0回 いのちの学び舎(20181123)

 

イベントのまとめ・感想(7・29テネモスミーティング長野)

 

 

 

 

福岡博士の最後の講義を文字起こししました。

長いですが是非お読みください。

 

 

********************************

 

NHK 最後の講義(福岡伸一)より

 

たどり着いた考えは実に独特です。

1年前の私の私と今日の私は物質レベルでは別人。

ほとんど入れ替わっている。自分の体は個体と思っているが流体。

 

生命の本質にせまる。

脳死問題は医療の進歩でもなんでもない。

 

脳死とは時間の両側から生命の時間を短縮している。

 

生命の定義。

見る視点によってかわってくる。

地球全体、宇宙全体が生命。

 

生命とは。。

 

********************************

 

今日は私は生命のことをお話しします。

 

結論は、ビバ生物。ビバ生命。

 

 

私は生物学者になるずっと昔は昆虫少年でした。

 

葉っぱに付いてる蝶々の卵とかを採集して家でせっせと育てた。

私は人間の友達がいなくて虫だけが友達だった。

昆虫を見ていて感じたことは、いかに自然が精妙にできているか、

いったい生命ってなんだろうと感じた。

 

 

この生命とは何か。という疑問は少年の素朴な問いかけであるとともに

生物学最大の問いかけでもある。

 

 

生命とは何か?

 

 

生命は機械ではない。

 

 

福岡博士を生物学の入り口にいざなったのは

両親がプレゼントしてくれた顕微鏡だった。

 

「顕微鏡といっても、そんなに高級なものではない。

 ちょうちょの羽をみると、鱗粉という小さなモザイクタイルみたいな

 色のついた桜の葉っぱみたいなもの鱗がはりつけられている。

 顕微鏡の中にミクロの小宇宙が広がっていて吸い込まれてしまった。

 

 

 当時はオタクという言葉はなかった。まさに虫オタク。

 

 何か一つのことを見つけると、その源流をたどりたくなるのが

 オタク。

 

 

 この顕微鏡という素晴らしい装置をいつの時代、どこの誰がつくったのか?

 当時はネットもないし、手がかりになるのは本だけ。

 近くの図書館にいって確かめた。

 

 

 発明されたのは、今から350年前の1600年代のこと。 

 オランダのアントニー・レーウェンフックさんという人だった。

 この人は高等教育を受けていないし、大学の先生でもないし

 町の一市民だった。

 

 

 でもひたすらアマチュアとして顕微鏡を工夫してミクロの世界を

 人類至上はじめて精密に観察した人。

 

 

 アントニー・レーウェンフックの作り出した顕微鏡は

 現在の顕微鏡とは似ても似つかない形をしていた。

 

 

 

 レンズがはめこまれていて

 尖っている先に見たいものをはりつけて観察する。

 

 原始的な装置だったが、レンズの磨き方が非常に素晴らしく、

 300倍くらいの倍率を実現していた。

 

 レーウェンフックは

 まず我々の体が細胞という小さなユニットで

 できているということを見つけた。

 

 それから血液の流れをみると、血管の中につぶつぶの粒子がたくさん

 流れている。それは白血球や赤血球。

 

 最大の業績の一つは、動物の精子を発見したこと。

 

 

 生命の種になっているということを彼は突き止めた。

 

 

 アマチュアが非常に大きな生物学上の発見をなしたと

 いうことに私は深く深く感動しました。

 

 そしてレーウェンフックみたいに生命を探求する人に

 なれたらいいなと思った。

 

 そして昆虫学者を目指します。

 

 

 しかし80年代、その世界は想像とは違いました。

 

 無類の虫好きで大学に入ったが

 駆除が目的の研究しかしていないことに気づいた。

 

 

 その時、分子生物学というものに出会った。

 人間の体の外の虫を探すのではなくて、

 体内の新しい虫を探すこと、同じことを

 やっているのが分子生物学だった。」

 

 

 昆虫少年から遺伝子ハンターとなった福岡博士は

 90年代のはじめに新しい遺伝子を発見する。

 GP2と名付けられた遺伝子だが、その役割が

 全くわからなかった。

 役割をつきとめようと壮大な研究がはじまった・・

 

 

「GP2を取り除いたマウスを作り出し、

 何が起きるかを見ていくのです。

 

 携帯電話とかコンピューターとか何でもいいが 

 機械を思い出してください。 

 その中から一つだけ部品を引っこ抜いて

 捨ててしまったら当然機械は壊れる。

 その壊れ方を調べることによって

 今抜いた部品が何だったか言い当てることができる。

 それと全く同じようにGP2を捨ててしまった

 マウスにはとんでもない異常が起きるはず。

 それを調べることでGP2が何をやっていたかがわかる。

 

 

 3年間苦労して昼夜なく働いて、そんなマウスを作り出した。

 研究費もポルシェの新車が軽く3台買えるくらい費やした。

 

 

 そしてこのマウスにどんな異常が起きるのか。

 というのを固唾を飲んで見守った。

 

 しかし・・どこにも異常が見つからない。

 

 

 そんなはずはないだろう。GP2という大事な部品が

 完全に欠落しているかどうかも調べた。

 血液をとってありとあらゆるパラメーターを測定したが

 どの値も正常な範囲内におさまっていた。

 もしかしたら、もっと長い時間かけたら異常がみられたかもしれない。

 マウスの寿命は2年だが、このマウスは寿命が短くなることも

 老化が早くなることもなかった。

 

 多大な研究費と長い時間をかけてせっかくマウスをつくって 

 GP2の作用がわかるに違いないと行ったのだが

 私たちは非常に大きな研究の壁にぶつかってしまった。

 

 

 そんなときに、ふと昔読んだ論文の一節を思い出した。

 

 その論文には、こんなことが書いてあった。

 

 

 《生命は機械ではない、生命は流れだ》

 

 

 詩人の言葉みたいに聞こえるが科学者

 ルドルフ・シェーンハイマー(1898−1941)

 が言った言葉。

 

 

 70年前くらいに活躍していた人だが、ほとんど知られていない。

 43歳の若さで謎の自殺を遂げてしまったので

 科学史の中から消えてしまった人。

 

 

 生命は機械ではない。この言葉に頭をがつんと殴られた。

 生命を機械のように扱った浅はかな自分。

 それは生命の美しさに感動し、この道に進んだ

 少年時代の自分への裏切りだった。

 

 研究は行き詰まってしまった。

 

 

 そもそも生物学は、生命を機械のように見る機械論で発展してきた。

 

 

 ヒトゲノム計画は、その最たるもの。

 人間を解体し、さらに分解して

 細かな部品にして、ついに全ての遺伝子を明らかにした。

 

 

 しかしそれは映画のエンドロールを見ているだけのようなもの。

 登場人物はわかったけれど肝心の内容はわからない。

 

 

 生命にどんなドラマがおきているのか

 シェーンハイマーはそれを解き明かそうとした一人でした。

 

 

 シェーンハイマーの問いかけも

 生命とは何かという非常に本質的な問いかけだった。

 

 

 でも彼の問いはもう少しシンプルなものに変えられていた。

 生命は毎日毎日食べ物を食べ続けなければいけない存在です。

 

 

 そしたらどうしてわれわれはご飯を食べ続けなければいけないのか?

 

 

 そんなのはあたりまえのことじゃないか、それは

 シェーンハイマーが生きた20世紀前半でも

 そんな単純なことを答えられた人はいなかった。 

 

 

 食べ物と生物の関係というのは自動車とガソリンの関係に

 置き換えられて説明されていた。

 

 

 食べ物と生物の関係も全く同じで、食べ物も体の中で燃やされます。

 そのことによって熱エネルギーが生み出され、それは動物の体温に

 なります。でもそれは全部燃やされてしまうと消費されてしまうので

 新しいエネルギーがいるのでまた食べなければいけない。

 

 

 でも、シェーンハイマーはそのことをもっとちゃんと確かめてみようと

 考えたわけです。

 結果を見てみると、非常に意外なことが起きていました。

 

 

 1年前の自分は別人である。

 

 ガソリンのはずの食べ物は、体の中でどうなるのか。

 食べ物を原子の単位でマーキングし、体の中での行方を探りました。

 

 

 食べた食べ物の半分以上は燃やされることなく

 ネズミの体の尻尾の先から頭の中、体の中、

 いろんなところに溶け込んで

 ネズミの一部に成り代わっていってしまった。

 

 これって、ガソリンと車の例えでいうと、

 注ぎ込んだガソリンが燃やされるだけでなく

 タイヤの一部になったり座席の一部になっり

 ハンドルの一部になったりネジの一部になったりするということ。

 

 

 どんどんどんどん作りかえられて交換されている。

 

 爪とか髪の毛とか皮膚が交換されているのは実感できるが、

 実は体のあらゆる部分が全く例外なく入れ替わっていく。

 

 骨とか歯とかかちっとしているようなところも

 中身は入れ替わっている。

 

 脳細胞なんかでも、細胞の中身は入れ替わっている。

 

 

 「生命は絶えず作り変えられ、交換されている」

 

 

 ですからうんちの主成分というのは食べカスが出ているのではない。

 自分自身の細胞がどんどんどんどん捨てられているのがウンチの

 実態で、捨てられた分、食べ物から新しい細胞が作られている。

 

 

 ですから1年前の私と今日の私では別人。物質レベルでは

 ほとんどが入れ替わっているといっても過言でもない。

 だから1年前の私がいったことは別人がいったことなんで

 約束なんか守らなくてもいい(笑)

 

 

 ですからみなさん自分の体は個体だと思っているが

 長い時間軸で見てみると流体なわけなんです。

 絶え間なく流れている。

 

 

 じゃあどうしてわれわれの体は去年の私と今年の私は

 物質レベルでは全然入れ替わっているにもかかわらず

 記憶は保存されているのか?

 入れ替わっていたら、いろんなものが失われてしまうのではないか。

 

 

 なぜ記憶は消えないか?

 

 

 記憶というのは脳の中にビデオテープみたいに保存され

 それが読み出されているのではなくて、

 神経細胞(ニューロン)の回路網として保存されていて

 そこに電気が通るとある記憶が蘇る。

 

 

 だから山手線を思い出してください。

 山手線は今から100年前に作られたものですが

 駅も線路もどんどん作り変えられている。

 

 でも山手線は山手線で駅と駅の関係は変わっていない。

 

 

 渋谷の次は原宿で次は代々木というように

 駅は古くなると作り変えられて変わっているが、

 駅と駅との関係は変わらない。

 だから記憶はそう簡単には消えない。

 

 

 2011年、理系の研究室を閉じました。

 ミクロの世界での生命の研究はやめ、文系の教授になった。

 

 

 少年時代に心を躍らせた生命、機械とは異なる

 生命の本質を探求し、理系も文系も分け隔てなく

 伝えようとしています。

 

 

 キーワードは動的平衡です。

 

 シェーンハイマーのコンセプトを日本では 

 動的平衡というように呼んだらいいのではないか。

 

 

 動的というのは常に動いているということ。

 平衡というのはバランスという意味。

 

 絶え間のない流れの中でいつも合成と分解が

 なんとかバランスをとっているというのが

 われわれの体の一番大事な特性。

 

 常に動的平衡が成り立っているから

 私たちの体の中は何かがなくても

 他のものがピンチヒッターとなってやってきたり

 うまく平衡を作ることができるので

 GP2がなくてもないなりに、補うような仕組みで

 新しいバランスを作り直している。

 

 

 ノーベル賞を受賞した生物学者の大隅良典教授を

 はじめ21世紀に入ると生命が分解される仕組みが

 わかってきました。

 分解、すなわち自分自身をこわす仕組みです。

 

 

 どうして生命は自分をこわす必要があるのか?

 

  それはエントロピー増大の法則に戦うため。

 

  エントロピーの法則とは、

  宇宙の大原則として秩序があるものは 

  秩序がない方向にしか動かない。ということ。

 

 どんなに壮麗に建築物を作っても

 月日とともに風化していく。

 

 しかし生命だけは38億年間も

 ずっと連綿としてなぜ生命だけが

 エントロピー増大の法則に逆らって続いているかというと

 頑丈に作るということを最初から諦めて

 ゆるゆるやわやわに自分自身を作っておいて

 エントロピー増大の法則が襲ってくるよりも先回りして

 自分自身を積極的に壊して長い時間秩序を守り続けている。

 

 

 積極的に作り替えるなら、なぜ老けるのか?

 

 われわれの体というのはリニューアルされているはずなのに

 なぜ老けていくのか?

 それは完全にリニューアルすることはできないから。

 掃除をしても部屋の隅とかにちょっとはゴミが残ってしまう。

 それと同じように、細胞の中を作り変えても

 少しだけ酸化物が残ったり、老廃物が残ったりしてしまう。

 それがちょっとづつ蓄積されていくのが老化。

 

 生命は機械ではない。

 

 いくら訴えてもなかなかどうして

 機械論的生命感は私たちにしっかりしみこんでいる。

 

 命に刃を向けた人間。

 こちらの絵は小さい子供が書いた人間です。

 

 驚くべきことはたった4歳の子供でも

 機械論的な生命感に染まってしまっている。

 つまり人間はパーツからできている

 目鼻、口と手足から人間は生きているというふうな、、

 

 

 でもその考えが間違いだというのは

 次のような思考実験をしてみれば明らか。

 

 天才外科医のブラックジャックみたいな人がやってきて

 AさんからBさんに鼻を移植しようと考えたとする。

 Aさんからどういうふうに鼻を切り取れば

 鼻という機能をとりはずしてBさんに移植することができるか。

 

 鼻というのは実は鼻の穴の奥のほうの天井には

 嗅覚上皮細胞というのがあってそこで匂い物質を感知して

 その信号を脳の奥に運んでいく。

 

 だから嗅覚という機能を鼻と考えると、

 結局体全体をもってこないと鼻という機能を取り出せない。

 

 つまり部品でわれわれはできていると思っているけど、

 実は全部つながっていて

 一つの体として機能をもっている。

 

 すべての部品は相補的な関係で

 どこか一部を切り出してくることはできない。

 

 生命には「部分」がない。

 

 さらに人間が生命を機械と捉えると怖いことがおきる。

 人間に対し警告するような出来事があった。

 

 生命が連鎖する地球環境から人間がリベンジされた例があります。

 

 狂牛病です。

 

 狂牛病とは牛の脳がスポンジ状となり牛が異常行動を起こす病気です。

 1986年イギリスで発生しました。

 原因は牛の餌でした。

 

 牛の餌って一体なんですか?

 

 牛は草食動物なんで、牧場で草を食べていると思うが

 狂牛病にかかった牛のほとんどはミルクを出す乳牛だった。

 

 乳牛たちはどんどんミルクを搾りとられるから

 たくさんの栄養を食べさせないといけない。

 しかしミルクをしぼりとるために高い餌を与えていたら

 ミルクを安く作ることはできないのでできるだけ安くて

 栄養価がある食べ物を食べさせられていた。

 それは草ではなく肉骨粉という飼料だった。

 

 それは肉骨粉とは他の家畜の死体から作られたもの。

 

 つまり草食動物である牛を、

 肉食動物に人工的に変えていた。

 

 そのほうが経済効率がいいから。

 

 狂牛病というのは羊のスクレイピー病という

 病気が餌に入り込んで、その餌を食べた牛が

 たくさん病気になったことがわかってきた。

 

 そうこうしていると、病気になった牛を

 食べた人が、人版の狂牛病になってしまった。

 

 それはヤコブ病という名前がついている。

 

 いずれも人間が勝手な都合で本来の動的平衡を

 切断して組み替えたせいでこういうことが起きてきた。

 

 食べ物が体をつくるのに、牛を肉食動物に変えたせいで

 牛の動的平衡が崩れました。

 

 バランスを失った牛を今度は人間が食べ、人間も

 バランスを崩しました。

 

 つまり動的平衡は必ずしもひとつの生命の中で起こっている

 だけではなくて、地球全体の生態系の中でも動的平衡は

 成り立っている。

 

 

 さらに、機械論的な生命感は人間の生命感も揺るがしている。

 

 

 脳死の問題です。

 

 博士の人生は今、その生命哲学との格闘です。

 

 脳死問題というのは、死ぬ時点が一体いつかという考え方。

 死ぬというのは、ある瞬間に死ぬわけではない。

 

 われわれの体は37兆個の細胞が集まってできているので

 心臓が止まっても体の細胞はまだ大半は生きている。

 

 だから死というのは本当は1点でおきるのではなくて

 徐々に消えていく。

 

 でも法律が決められなかったし不都合があるので

 人間が勝手に文節点を作った。

 

 補填的な死というのは心臓が止まることと、

 

 呼吸が止まることと、瞳孔の反射が消えてしまうこと、

 最近の動向では、死の基準をもっと遡って

 脳が死ねばそれが死だということになってきた。

 

 

 

 なぜこんな考えが出来てきたかというと、

 新しい産業が生まれるからです。

 

 

 新しい医療が生まれ、お金を儲けられる人が

 増えるからです。

 

 

 脳死をこの時点にするとまだ体は生きているのに

 その時点ではその身体は死んでいるとみなせる。

 

 

 つまり脳死というのは臓器移植のために死の地点を

 前倒しにした機械論的な生命観に基づく生命の分断なわけです。

 

 これと全く同じことが生まれてくる方にもいえる。

 脳がはじまるところが人間がはじまるところと

 考えてもいいということになる。

 

 

 臓器を移植することで助かれば幸せかもしれない。

 でも人間は経済システムができていて

 いろんなものを取引するようになった。

 

 いきつくところが生きている人間の臓器を交換する。

 脳死を限定してそれができるようになると

 いつから生まれたかも限定するようになる。

 その前にできている内臓は、生まれている範疇にならないと

 利用できると考える人がでてくるだろう。

 

 

 生命がいつはじまるかということは

 非常に難しい問題で、

 受精卵ができたときが一応暫定的な出発点と

 考えると、そこから生命は出発している。

 

 しかし、脳がはじまるいう概念を持ち出すと

 胎児の脳が機能しはじめたときが人間のはじまり

 というふうに考える考え方も成り立ってしまう。

 

 その人間の脳がはじまる時というのは

 全体の妊娠期間の4分の3くらいが終わったくらいが

 脳がはじまっていろんな反応がでて意識が立ち上がってくるところがある。

 

 

 脳死が人の死ならば、脳がはじまるところが人間のはじまり。

 そういうことになれば、さらにその期間も医療上、

 生物学上のツールとして使える。

 だから胎児の細胞を使って、新たな再生細胞をつくるとか

 いろんなことに使えることになる。

 

 

 これまた機械論的な生命観による生命の操作につながってくる。

 

 

 だから脳始(脳が始まる)も、人工的な切れ目なんで、

 この考え方は医療の進歩でも何でもなく

 両側からわれわれの生命の時間を短縮していることにすぎない。

 

<参加者からの質問>

 

 Q「医学とか獣医学というのは機械論的な生命観の元で発達してきた学問だが

  日々どのように臨床にあたっていけばよいか?」(獣医学部の学生)

 

 

 A「医学が学問であるためには必ずエビデンスがいるし、

      一人一人の人を救うためには、

  一人一人の人はそれぞれ固有の動的平衡状態を保っているので

  エビデンスのような平均化をしたり

  標準的な治療でのぞむと、

  一人一人の個別性が消えてしまう。

 

  でも医学や獣医学が有効なのは

  結局痛みを解放してあげるとか

 

  問題を解決してあげることが臨床の大事なポイント。

  その時に部品としてみてしまうと

 

  エビデンスや標準治療に頼ってしまう

  秀才型の医者になってしまう。

 

  膝が痛いというときに、膝という部品が

  悪いから膝が痛いわけではなくて

  生命が動的平衡のバランスの上に成り立っていて、

  そのアンバランスが病気となって現れているという

  考え方をいつも中心において、

  そこからものを考えていくのがよいのでは。」

 

 Q 「生物学を学んでいる。

   人が進化してきたのはこういう意味があったというのは

   ある意味説得力にかけている。

   なぜなら論証できないから。それはサイエンスではないから

   疑念が残ってしまうところがある。

   動的平衡の考え方もある種そのような類のものに属してしまう。」

 

 A 「前半部分は賛同する。

  生物の進化に関しては実験できないし、その点では

  生物学は物語、仮設になってしまう。

 

  動的平衡もある種の見立てというか

  検証することはなかなか難しいかもしれない。

 

  動的平衡をもうちょっとみなさんに知っていただくためには

  数学的なモデルを作る必要があると考えて他の文化圏の人にも

  動的平衡というコンセプトを伝えられるよう努力している。」

 

 

 Q「生命とはなんなのか疑問にもってきた。

  一つの生命の中だけでなく生態系全体が

  動的平衡を持っているということだったので、

  生命の定義は見る視点によって異なってくる。

  考え方によっては、地球全体が生命となるのでは。」

 

 A「生命をどう定義するかによって見方が変わってくる。

  生命は動的平衡であるという私の定義から見たら

  細胞も生命だし、細胞と細胞の集合体であるわれわれも生命だし、

  個人が集まっている人間社会も生命体だし、

  人間と他の生物地球全体も一つの生命体といえる。」

 

 

 生命とは何か?顕微鏡を手にした瞬間から始まった

福岡少年の冒険。

 

その問いに答えていた人物がいます。

 

ノーベル賞物理学者 朝永振一郎(ともながしんいちろう)

 

博士は彼の日記に引き寄せられました。

 

**************************

 

物理学の自然というのは自然をたわめた不自然な

作り物だ。一度この作りものを通って、

それからまた自然にもどるのが学問の本質

そのものだろう。

 

活動写真で運動を見る方法がつまり

学問の方法だろう。

 

無限の連続を有限のコマにかたづけてしまう。

 

しかし、絵描きはもっと他の方法で運動を

あらわしている。

 

   「滞独日記」 朝永振一朗

 

***********************

 

「これは生物学に置き換えることができる。

生物学の自然というのは、機械論的な自然なんです。

でもそのことによってはじめて見えてくるミクロな

世界ももちろんある。

でもそこで終わってしまわずに、一度その作りものを

通って、それからまた本来の自然にもどるのが

学問の本質そのものだろうと言っている。

 

これを私に引き寄せて考えてみると

機械論的な自然というのは自然を

人工的に作り変えて、不自然な状態として整理してみている。

分節したり部品化したりして・・

 

一度そういうふうな見方を通した上で、

本来の自然は動的平衡としてあるので

そこにもどるのが学問の本質だろう。

 

こんなこともいっている。

活動写真で運動を見る方法が学問の方法。

 

無限の連続を有限のコマにかたづけてしまう。

 

時間を止めて見ているので、

どうしても1枚1枚の絵は静止画像になってしまう。

 

その静止画像を連続してパラパラ漫画みたいにして

自然が動いているという人工的な見方で

自然をみている。

 

しかしそれはもっと滑らかな時間として連続しているものが

生命の本質。

 

 

最後に彼は絵描きはもっと他の方法で運動をあらわしている。

 

なるほどそうかと思ったことがある。

私の趣味の話だが、オランダの画家フェルメールの作品。

「真珠と首飾りの少女。」

 

 

絵というのは写真みたいに時間が止まっているようですが

画家は違う形で動く時間を描いている。

 

確かに画家は彼女が次に何かささやくのか、

ここにいたった時間と、ここから出発する時間がこの絵の

中に動きとして込められている。

 

先人がすでに気がついていたことを私が

言い直しているにすぎない。

 

機械的な生命観は、生命をたわめた作り物だ。

一度この作りものを通って、動的平衡な精鋭観に

もどるのが学問の本質そのものだろう。

 

どうもありがとうございました。